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<title>内田樹 入試部長のひとり言</title>
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<updated>2010-01-18T15:30:18+09:00</updated>
<subtitle>神戸女学院大学入試部長 内田樹（うちだ・たつる）。入試部長就任を機に、神戸女学院大学の教育、アドミッションポリシー、ひいては日本の大学教育について、新しい視点から提言を行います。</subtitle>
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<title>ヴォーリズ建築</title>
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<published>2010-01-18T15:27:22+09:00</published>
<updated>2010-01-18T15:27:22+09:00</updated>
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<![CDATA[<p>みなさん、こんにちは。<br />しばらく更新できませんでした（秋冬は入学センターは忙しいんですよ）。<br />ようやくセンター入試も終わったところに、少し前に図書館のニューズレターに寄稿した「ヴォーリズ建築」についてのエッセイが印刷されて戻されてきました。それを再録します。<br />その前に、どうしてこんなエッセイを書いたのか、その趣旨説明をひとこと。<br />この学校を志望している高校生のみなさんも、してないみなさんも、「校舎」とは何かについて考えたことって、あまりないと思います。<br />でもね、校舎って、すごくだいじですよ。<br />例えば、「大きな声を張り上げないと隣の人とも話ができないような騒音の中」ではもちろん授業なんかできません。<br />けれども、そこまでひどくなくても、「声が気持ち悪く残響する教室」にいると、授業しているときにどんどんテンションが下がってくるのがわかります。<br />自分のしゃべった声が少し遅れてリバーブすると、自分が「バカみたい」に思えるんです。<br />ところが、このリバーブ（「ってなんだよ」とイラついたあなた、英和辞典を引きましょうね。Reverb）の遅れが微妙な場合はですね、逆に「言っていることがすごく賢そうに聞こえる」という効果があるんです。<br />ほんとに。<br />「自分がバカみたいに思える」残響時間と、「自分が賢く思える」残響時間の差って、たぶんコンマ何秒の差なんです。<br />でも、その差は、長期的に統計をとれば、あきらかにその教室で営まれる知的営みの質に影響を与えます。<br />経験的には「そういうことって、あるよね」ということは高校生のみなさんにもわかるはずです。<br />でも、「そういうこと」を勘定に入れて、建物の設計をしている人はきわめて少ないと思います。<br />本学を設計したヴォーリズさんは、「そういうこと」を直感的にわかっていた稀有の建築家です。<br />だから、うちの大学の校舎は「すごい」ですよ。<br />ほとんどの人はうちのキャンパスについて、審美的に、外形的に「きれいですね」ということしか言いませんけれど、校舎の一義的な目的は「きれい」であることではありません。<br />そうじゃなくて、そこで学ぶ人たちの知性のパフォーマンスを向上させることです。<br />ヴォーリズの建物はどんなふうに「知性を向上させる」のか、それについて書きました。<br />６月に書いたこととちょっと「かぶり」ますけれど、読んでね。</p>
<p><br />「ヴォーリズ建築における学びの環境」<br /> すでにあちこちで書いていることなので、繰り返すのは気が引けるのだが、たいせつなことなので、やはり書きとめておくことにする。それは本学のヴォーリズ建築は建築物そのものが学びの比喩になっているということである。<br /> 外形的にも本学の校舎は美しく、十分に審美的価値があると私は思うけれど、美はたぶんに主観的なものであり、これに一片の価値も見出さない人ももちろんいる。私は現にそのような人たちに会ったことがある。<br /> もう覚えている方は少ないだろうけれど、震災よりだいぶ前に、某シンクタンクに本学の財政再建策の起案を依頼したことがあった。その年、私は組合の執行委員長であったので、従業員の立場から調査員たちのヒアリングを受けた。ヒアリングそのものはごく形式的なものであったが、そのときに調査員が「地価の高いうちに岡田山キャンパスを売り払って三田あたりに移転すればいいのに」と漏らした言葉に仰天したことを覚えている。どうしてこんな素晴らしいキャンパスを売り払わなければならないのか、その意味がわからなかった。改めてその理由を質したところ、「だって、こんな築六十年の建物なんて、なんの価値もないでしょう。修繕に金がかかるだけで、こんなものを残しておくのはお金をドブに棄てるようなものですよ」という答えを得た。<br />このキャンパスの価値を、彼らは地価と管理経費によってのみ数値的に考量しており、それ以外にはものの価値を量るものさしを持っていなかったようである。<br /> あるいは彼らの方が「ふつう」で、びっくりした私の方が異常なのかも知れない。<br />現に、滋賀の豊郷小学校は１９９９年に当時の町長が老朽化と耐震性を理由に解体しようとしたし、東洋英和の校舎も同じような理由で取り壊された。<br /> 校舎の価値はそれが「校舎として」どう機能しているかを基準に考量されるべきであって、それが立っている地面の市場価格や修繕費用の多寡とは本質的にはかかわりがないと私は考えているが、それは必ずしも私たちの社会の常識ではないらしい（だが、少なくとも、耐震性について言えば、震災のときに１９７０年代に建てられた建築物は醜くひしゃげたが、ヴォーリズの建てた校舎はびくともしなかったことを強調しておかなければならない）。<br />ビジネスマインデッドな人々にはこの学舎の価値は見えにくい。けれども、それはこの建物を生活の場として、そこで研究と教育の日々を送っているとゆっくりと身にしみてくる。<br />私がこの学舎に隠された巧妙な「仕掛け」に気づいたのは、着任して５年後に経験した震災の後の復旧工事のときのことである。<br />それまで私は図書館本館に研究室を与えられていたが、そこと文学館のいくつかの教室しか知らず、理学館にも総務館にもほとんど足を踏み入れたことがなかった。復旧作業に従事していた私たちは、作業の必要上、ヴォーリズ設計の建物を一部屋一部屋踏破することになった。そして、廊下から見ただけではわからないほどにこの建築物が巧妙なつくりになっていることを教えられた。<br />理学館に３階があり、さらに六甲を望むすばらしい眺望の屋上があることを知ったのはこのときである。この屋上は文学館からも中庭からも見えない。一見左右対称に見える文学館と理学館のあいだにこのような仕掛けがあることに気づかないまま卒業していった学生は数えきれないだろう。<br />図書館本館の３階には「ギャラリー」がある。学生たちが静かに仮眠をとることのできるこの特権的スペースに眠りを妨げるものが乱入しないように、この場所を愛用する学生たちはその存在についての言及を控えていた。<br />総務館の二階の理事室の後ろに「隠しトイレ」があることを知ったのはほんの数年前のことである。そのトイレは藤棚横の銀杏を正面に見る北向きの窓が開いており、私の知る限り、このキャンパス内でもっとも眺望のよいトイレであった。<br />もうおわかりいただけたと思うが、ヴォーリズ建築の「仕掛け」の原理は「扉を開けなければ、扉の向こうに何があるかはわからない」ということである。<br />私はこれを「学びの比喩」と呼んだのである。<br />教育を功利的な語法で語る人は、教育の価値はそれが子どもたちにどのような利益をもたらすかによって考量されると信じている。だから、換金性の高い知識や技術を目の前に差し出せば、子どもたちは争ってそれを学ぶし、学力が低い人間を社会の低位に格付けして、これを差別し、罰を与えれば、子どもたちは争って学ぶはずだと考える。「キャロット＆スティック」教育観である。<br />けれども、教育の唯一の動機づけは経済合理性であるというこの貧しい人間観が採用されて以来、日本の子どもたちの学力は底なしに低下し続けている。それはこの人間観は学びのダイナミズムをとらえていないからである。<br />私たち自身が経験的に熟知しているように、私たちの学びへの意欲がもっとも亢進するのは、「これから学ぶことの意味や価値がよくわからない」のだが、「それにもかかわらずはげしくそれに惹きつけられる」状況においてである。<br />ヴォーリズの「仕掛け」は「その扉を自分の手で押してみないと、その先の風景はわからない」という原理に貫かれている。<br />だから、あちこちに意味の知れないへこみがあり、隠し階段があり、隠し扉がある。一階と二階では間取りが違う。一階ではこの場所に「これ」があったから二階にも同じものがあるだろうという類推はヴォーリズの建物では効かない。<br />扉の前に扉の向こうに何があるか、自分が進む廊下の先に何があるのか、それを学生たちは事前には開示されていない。自分の判断で、自分の手でドアノブを押し回したものだけに扉の向こうに踏み込む権利が生じる。どの扉の前に立つべきなのか。それについての一覧的な情報は開示されない。それは自分で選ばなければならない。<br />「学びの比喩」というのはそのような意味を指している。<br />ヴォーリズ建築がそのようにメタフォリカルなものであることを学び知るまでに私は二十年近い歳月を要した。<br />学舎そのものがそこで生きる人々に人間的成熟を要求するような建物というものが存在しうるということを知るまでに、私にはそれだけの時間が必要だったのである。</p>]]>

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<title>大学生活のツボのツボ</title>
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<published>2009-08-06T09:39:06+09:00</published>
<updated>2009-08-06T09:39:06+09:00</updated>
<summary>旺文社の『螢雪時代』2009年8月号にインタビューが載りました。この「入試部長のひとり言」にも転載します。 肩の力を抜いてボーっとキャンパスへ入れ 『螢雪時代』...</summary>
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<![CDATA[<p>旺文社の『螢雪時代』2009年8月号にインタビューが載りました。<br />この「入試部長のひとり言」にも転載します。</p>
<h2>肩の力を抜いてボーっとキャンパスへ入れ</h2>
<p>『螢雪時代』の読者のみなさん、こんにちは。<br />内田樹です。「樹」は「たつる」と読みます。今日は、受験勉強のゴールである大学に入ってからみなさんにしてもらいたいことをお話します。<br />勉強の邪魔になるといけないので、結論を先に言いましょう。大学に行くことの意味は、その存在さえ知らなかった学問と出会うことです。具体的に言うと、卒業するときに、「まさか自分がこんなことを勉強することになるとは思わなかった・・・」という感想を持つことです。そういう感想を抱くことができたら、大学教育は成功した、と言ってよいと思います。<br />その逆を考えれば、どういうのがいけないのかわかります。</p>
<p>大学の新入生を見ていると、1年生から卒業までスケジュールを決めて、予定表をびっしり作ってしまっている人がいます。これは意味がありません。それじゃまるで、監獄に入っている囚人が出獄の日が来るのを数えて、壁にしるしをつけているようなものです。そんなふうに予定をこなしていくだけの味気ない4年間にしてはもったいない。</p>
<p>それに予定を事細かに決めてしまうと、未知なものを受け入れる余地がなくなってしまう。みなさんは自分が学ぶべきことをあらかじめきちんとリストにしておいて、その通りに学習することをものを学ぶことの標準的なかたちだと思っているかも知れませんけれど、違いますよ。そんなことをしても、たいしたことは学べません。学ぶというのは「自分が知らないことを学ぶ」のではなく、「自分がそれを知らないということさえ知らなかったことを学ぶ」という一つ次数の高い営みなんです。</p>
<p>大学で何をしようとか、どんな資格を取ろうといったことは、今はあまり考えない方がいい。入学に際して必要なのは、自分の頭を開放し、「学びの姿勢」をもつことだけ。これがしたいとかこれはしたくないといったことを決めつけてしまうには、18 歳という年齢はあまりに若い。それより、肩の力を抜いてボーっとキャンパスに入っていくのが理想的です。妙に力まず、緊張もせず、先入観を持たないで体や頭を透明にしておき、自分自身のアンテナの感度を上げ、れます。そのアンテナに何が引っかかってくるかを待つこと。それが一番生産的な姿勢です。</p>
<h2>新たなプレーヤーとして「ゲーム」に参加せよ</h2>
<p>私が大学を選んだときの一番大きな理由は高校時代に、柴田翔という人が書いた小説『されどわれらが日々』を読んだことです。その小説に描かれた東大生たちの様子を見て、どうもこの「大学」はずいぶん異常なところらしいということがわかりました。妙な人々が跳梁跋扈していて、理解しがたい言語を語っている。大江健三郎の東大を舞台にした小説も、受験のモチベーションをずいぶん上げてくれました。その大学に行くと「こんないいことがある」というふうにふつうに言われることが書かれているからではなく、やはり奇態な人々が、私にはルールのわからないゲームをしているように思えたからです。なんだかしらないけれど、そこに自分も参加してみたい。そんなふうに思いました。</p>
<p>現代の漫画にも、農業大学を舞台に奇人変人がうごめく姿を描いた『もやしもん』とか、美術大学生の生活を描いた『ハチミツとクローバー』などがありますね。ここでも農大や美大の「大学案内」に書いてあるような「いいこと」が描いてあるわけではありません。でも、高校生はこういうものを読んで、「なんだか、変な空間だな、自分もそこに入ってみたいな」と思う。だから、志願者が殺到するんでしょうね。少し前だと『動物のお医者さん』という漫画があって、このときは北大の獣医学科の倍率がはねあがりました。これも、獣医学科に行くと、こんなに「いいこと」があるとうい話じゃなくて、むしろ奇怪な教授たちや理解不能の先輩たちにひっかきまわされて、とんでもない目に遭う、という話なんです。だから、ほんとうはみなさんだって、大学に行きたい一番大きな理由は「わけのわからない人たち」に会いたいからなんです。そういう人たちにひっかきまわされて、自分が変わることを無意識には望んでいるはずなんです。「大学に入っても俺のスタイルは変えないぜ」とか「私の価値観はゆるがない」というようなことを言ってるうちダメです。</p>
<h2>90分の授業を受けたら3時間は安静に！</h2>
<p>自分を武装解除し、自分が無知、無垢、無防備であるという状態を許してキャンパスの中をフワフワ、フラフラする。大学とは、そういうふうに過ごすために作られた制度です。キャンパス内で目的なくふらふら歩いている学生をとがめる人はいません。何時間ベンチに座っていようが、図書館にこもっていようが、自分が取っていない授業をこっそり受講しよう、誰にもとがめられない。誰も監視していないし、誰にも自分のしていることを報告する義務がない。時間の使い方がこれだけ自由にできるのは一生のうちにほとんどありません。たぶん大学生のときと定年後だけです。</p>
<p>だから、私は学生たちに、なるべく長い時間、大学のキャンパス内にいるように言っています。それから、授業も取りすぎてはいけません。せいぜい1日に2コマか3コマまで。というのは、90分の授業を聞いたら、その授業の内容が体にしみこむのに、まで、少なくともその2倍の3時間ぐらいはかかるからです。講義中に先生が話したことの中に、何か引っかかることがある。違和感や反発、あるいは共感などを自分の中に定着させるにはある程度の時間がかかります。「頭が驚いている」ときには、すぐに次の行動を取らない方がいい。次の授業に出たり、息せき切ってアルバイトに行ったりしたら、せっかく頭の中が生産的にぐちゃぐちゃになったのに、台無しです。授業が終わったら、とりあえず図書館に行くとか、音楽を聴くとか、散歩するとか、何でもいいのですが、とくに目的もなく、「無為」な時間をキャンパスの中で過ごすことが必要です。それが知的に入力されたことが自分の中に沈殿して、地面に根を下ろすために必要な時間なのです。</p>
<p>高等教育には、そういう「生産的に無為な時間」が絶対に必要です。でも、こういう理屈は、大学以外ではまず通りません。社会に出れば、ビジネスの論理で、「その無為の時間のもたらす利益を数値的に実証してみろ」と言われても、答えようがありません。それが許されるのは大学にいる間だけです。大学にいる間は、市場経済の用語で考えるのは止めておきましょう。</p>
<p>大学には「学年暦」というものがあります。入学式がいつで、夏休みはいつからとか、そういうことが決めてあるのですけれど、わざわざそれを「学年暦」と称して、教授会の議事にしている。それだけ重要な案件だということです。それは、大学の中には外の世間とは違う時間が流れているということの宣言だからです。外の世界とは隔離された時間の中で過ごす。それが大学の意味なのです。</p>
<h2>自分の感性を信じ、やりたいことをやるのが一番</h2>
<p>大学は就職のためのプロセスだと考えている人がいます。今はこういう職業に需要があり、高い年収が保証されているといった情報をもとにして卒業後の進路を決め、それに直結する専門的な知識や情報を大学で身につけたいと考えている。社会に出てからすぐに役立つ知識や技術のことを「実学」と言います。でも、実学というのは思いのほか賞味期限が短いものです。今はこういう業種が華やかで、そこで働いている人たちは高収入を得ているという情報を聴きつけて、では、それを勉強しよう・・・と思ったときには、すでに10年は現実に遅れています。だって、時代はどんどん変わっていくんですから。僕らが卒業したころは、百貨店と広告と出版社が花形業界でした。金融工学は去年までは「実学」でしたけれど、来年はどうでしょう。</p>
<h2>一般教養を通じて自分の潜在能力を発見せよ</h2>
<p>みなさんに大学で学んでほしいのは、就職に直結するように見える学問ではなく、もう少し本質的な知性のパフォーマンスを高める方法です。別の言葉で言えば、どうすれば自分の脳の機能を上げることができるのか。</p>
<p>たとえば、ここに車がある。目的地が示される。では、とアクセルを踏んで走り始める前に、自分が乗る車の状態をまずチェックするでしょう。ガソリンがあるかどうか、ブレーキは効くかどうか、タイヤの空気圧はどうか、オイルはどうか。必ず点検するでしょう。いきなり走りだすわけじゃない。みなさんの知性だってそれといっしょです。使う前にまず始業点検しなければいけない。自分の心身が最高のパフォーマンスを発揮するための条件は何か、それを知らなければなりません。自分の心身の特性をじっくりモニターして、それが最高の性能を発揮するような運転の仕方、自分が一番得意なルートを選んで進んでゆく。車と同じで、一台一台特性がぜんぜん違う。高速道路をとばすのに向いている車もあるし、道なき悪路を踏破するのに向いている車もある、町中をくるくる走り回るのに向いている車もある。学問や職業も同じです。自分の能力が最高に発揮できる「道」がある。そこを気分よく走る。みんなが同じ道を行き、同じ目的地に向かうからと言って、それに追随するのは潜在能力の浪費です。</p>
<p>大学には教養課程があり、内容も、要求している能力も違うさまざまな学問が用意されていますが、これはまさに、あなたの知性がどういうふうに使うと潜在能力を最大限に発揮するかを吟味するためにあります。教養課程で、存在すら知らなかったいろいろな学問をひと通り食べてみる。その中に食いつきのよいもの、面白さを感じるものを見つけてください。教養課程は「いろいろな知的刺激を味わう」ことに意味があります。自分の知性がどういう入力に反応するのか、どういう主題について性能が向上するのか、それをていねいにモニターして欲しい。自分の知性構造の見取り図を持ってほしい。高等教育の基本は自学自習です。みなさんが、自分の知性のモニターがきちんとできたら、あとは教師にはもう何もすることがないんです。</p>]]>

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<title>学力とは何か</title>
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<published>2009-07-30T12:35:30+09:00</published>
<updated>2009-07-30T12:35:30+09:00</updated>
<summary>ある雑誌から「学力のつけ方」というテーマで取材がありました。う～む。学力のつけ方ですか・・・ みなさんは「学力」って何のことだと思いますか？試験の点数とか、偏差...</summary>
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<![CDATA[<p>ある雑誌から「学力のつけ方」というテーマで取材がありました。う～む。学力のつけ方ですか・・・<br /> みなさんは「学力」って何のことだと思いますか？<br />試験の点数とか、偏差値とか、TOEICのスコアとか、そういう数字で表せるものだと思っていませんか。<br />私はそうは思いません。<br />「学力」って、送りがなを振ったら「学ぶ力」になりますね。「学力」というのは、「想像力」とか「包容力」とか「忍耐力」とかと言葉の成り立ちは同じで、「学ぶことができる力」と解するべきではないでしょうか。</p>
<p>「学ぶことができる力」</p>
<p>それは点数や記号では表せません。そもそも数値的に考量すべきものではない。それは人間が「学ぶこと」に対して、どれくらい熱意があるか、どれくらい夢中になれるか、どれくらいぐいぐい知識を吸収するか、それを評するときに言うものであって、数値的に示して、他人と比べたり、それで人間を格付けしたりするものではない。私はそう思います。<br />例えば、あなたは「消化力」が強いとします。ご飯をぱくぱく食べても、「ぶふ」と倒れ伏すことなしに、すぐにぴょんと起き上がって、次の活動に取りかかれる。だから、「消化力、強いです」とちょっと自慢。でも、他人と比べて数値的に比較したりしようと思わないでしょう。比較するもんじゃなくて、むしろ、個人的な経時変化のチェックに使うものだから。「どうも、今日は腸における水分の吸い込みが弱いな」とか「ランゲルハンス島からのインシュリンの分泌がいまいちである」とか、そういうふうに自分自身の「これまでの消化力の推移」と引き比べて、自己管理に使うんじゃないですか。<br />睡眠力とか、細胞再生力とかもそうでしょう。<br />どんなときでも臥床後数秒で熟睡状態に入れるというのはすごい睡眠力ですよね。でも、これを他人と比較して自慢するということは、ふつうしません。怪我をしてもすぐに傷口がふさがってしまうという細胞再生力も生きる上ではある意味学力以上に重要な力ですけれど、これを比較して数値化して、人間を格付けするということは誰もしませんね。<br />学力もそういうものと同じだと思うんです。<br />「学ぶ力」はほんらい他人と比べるものじゃない。個人的なものだと思います。個人の経年変化について使う指標だと思います。<br />「なんか今朝は学ぶ気がしない」ということがあります。「どうもこの先生の話は聴く気になれない」ということがある。「どうもこの教科になると頭の機能が低下する」ということがある。主題によって、教える人によって、前の日に友だちと交わした一言によって、朝読んだ新聞の記事の一行によって、「学ぶ気」が高揚する場合があり、低下する場合がある。そういうものですよね。<br />何だか知らないけれど、今日はぐいぐい学びたい気分だなあ。さあ、何でも来い、というのが「学力が高まっている状態」ですね。<br />でも、それって「どういう状態」なんでしょう。<br />実際に、いくつか条件を示すことができます。<br />第一の条件は、自分は「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。無知の自覚と言ってもいい。当たり前ですけれど、「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人は「学ぶ力」がありません。これが本来の意味での「学力がない」人ですね。<br />第二の条件は、教えてくれる人に出会える力。<br />学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、誰に教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、この能力がないと学びは始まりません。<br />ただ、ここで「先生」というのは別に学校の先生である必要はありません。書いたものを読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「先生」に見立てることも可能です（だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって「先生」にしていいわけです）。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「先生」に見立てて、その人から学ぶということももちろん構いません。生きて暮らしていれば、至る所に師あり、ということになります。<br />ただ、そのためには常住坐臥<sup style="font-size: xx-small;">(じょうじゅうざが)</sup>いつも先生を探して、アンテナの感度を上げている「先生センサー」が機能していることが必要です。<br />第三の条件。それは「教えてくれる人を『その気』にさせる力」です。<br />こちらには学ぶ気がある。先生には「教えるべき何か」があるとします。条件が二つ揃いました。でも、それだけでは足りません。それだけでは学びは起動しません。<br />もう一つ、先生が「教える気」になる必要があります。<br />むかしから、師弟関係を描いた物語には、必ず「入門」をめぐるエピソードがありますね。何か（武芸の奥義とか）を学びたいと思っていた子どもが達人に弟子入りしようとするのだけれど、「ダメ」とすげなく断られる。それでもしつこくついていって、最初はいやがられるのだけれど、いろいろな試練の末に、どうも教わりたいという気持ちがまっすぐで素直であるということがわかると、「しかたがない。弟子にしてやろう」ということになる。そういう話はほとんど無数にあります。「学ぶ気」と「教える力」があるだけでは学びは成立しない。教える人に、「教えよう」という欲望が発動することが必要である。さて、そのための条件は何でしょう。<br />どういう条件が整うと、人は「たいせつなことを教えてもいい」という気になるのでしょう。<br />お金とかじゃないですよ。「先生、これだけ払うから、その分教えてください」といって札束を積み上げるようなやつはふつう弟子にしてもらえません。<br />先生を利益誘導したり、脅迫したり、おだてたりしてもダメです。だいたい、お金でころころ態度が変わったり、脅かされたら腰砕けになったり、ちやほやされると舞い上がるような人間は「先生」として尊敬する気になれないですものね。<br />先生を教える気にさせるのは、「お願いします」という弟子の真率だけです。まっすぐな気持ち。先生を見上げるつぶらな瞳。それだけ。これはあらゆる「弟子入り物語」に共通するパターンです。<br />弟子の側の才能とか経験とか、そういうことはどうでもいいのです。なまじ経験があって、「私はこれこれこういうことを、こういうふうな方法で習いたい」というようなこうるさい注文を先生に向かってつけるようなことをしたら弟子にしてもらえません。<br />それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も書いてないところに、墨痕淋漓<sup style="font-size: xx-small;">（ぼっこんりんり）</sup>、白い紙に黒々と墨のあとを残すように、どんなこともどんどん吸収するような、学ぶ側の「無防備さ」が先生が「教える気」になるたいせつな条件です。先生の教えることは何でも吸収しますという開放性、それが「先生をその気にさせる」ための弟子の構えです。<br />この三つですね。学ぶ力を構成するのは。<br />もう一度言います。<br />第一に、「自分は学ばなければならない」というおのれの無知や非力や無能についての痛切な自覚があること。<br />第二に、あ、この人が私の「先生」だ、と直感する力。<br />第三に、その「先生」に教える気にさせる無防備なほどの開放性。<br />これをひとことで言うと、「私は学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。<br />これだけ。<br />この言葉をさらっと言える人はもうその段階で「学力のある人」です。学校の成績のようなものは、この「学ぶ力」がもたらすさまざまな副産物のうちの一つに過ぎません。<br />この言葉が言えない人は、どれほど知識があろうと、技術があろうと、世知に長けていようと、権勢を誇っていようと、「学力のない人」です。私はそう見なします。<br />そして、現代日本人の「学力が劣化している」というのは、まさにこのことなのです。<br />別に知識が足りないとか、情報が不足しているとか、英語ができないとか、分数のわり算が苦手とか、そういう定量的なことを言っているのではありません。<br />そうではなくて、「学びたいんです。先生、教えてください。お願い」というまことにシンプルな言葉を口にすることを日本の子どもたちは忌避していることを「学力が劣化した」と申し上げているのです。<br />ほんとうに忌避しているんです。その言葉を口にすることを惜しんでいる。それを口にするとなんだかすごく「損をした」ような気になるらしい。だから、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたいと思っている子どもが、たぶんマジョリティを占めている。<br />別にいいよ。学びたくなんかないし、知らなきゃいけないことはもう知ってるし、先生なんか要らないし、誰かにものを頼むなんて借りができるみたいでやだし。<br />そういうふうな態度の子どもが多い。ほんとうに、ほとんど全部と言ってもいいくらいに。<br />これでは「学ぶ力」が劣化するのは当たり前です。<br />どうして、子どもたちは「学ぶ力」を失ってしまったのか。<br />それについてはまた次回。</p>]]>

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<title>「ふたりごと」</title>
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<published>2009-06-17T12:27:25+09:00</published>
<updated>2009-06-17T12:27:25+09:00</updated>
<summary>学研が出している「学研・進学情報」という冊子の７月号に、インタビューが載りました。高校生対象のインタビューでしたので、「ひとりごと」に転載することにします。イン...</summary>
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<![CDATA[<p>学研が出している「学研・進学情報」という冊子の７月号に、インタビューが載りました。高校生対象のインタビューでしたので、「ひとりごと」に転載することにします。インタビューだから「ふたりごと」ですけど。</p>
<h2>チキンレースをやめられないマーケットを見誤った大学</h2>
<p>――今、私立大の大規模校を中心に、志願者の争奪戦が激しく展開され、学部新設や入試複線化が相次いでいます。減少する学生を必死に集め勝ち残ろうとしていると思うのですが、高校の現場や高校生が振り回される面も多々あります。この現状について、どう思われますか？</p>
<p>内田：以前、文部科学省の方にこう言ったことがあります。「もし文科省が、大学も一般企業のように強いところだけが勝ち残ればいい、体力のないところは退場しなさいという考えを認めるのなら、それは教育行政の任務放棄じゃないですか」と。<br />有力私大の多くは、まるで地引き網ですくうかのように志願者をかき集めています。最近は、教育理念も教育方法も無関係に、経営難の高校を附属校化して高校生を囲い込むにも熱心です。でも、こんなことはいつまでも続かない。いずれ破綻しますよ。<br />小泉内閣のとき「大学経営も市場原理に委ねるべきだ」という考え方が「常識」になりました。でもその間に日本の18歳人口は２００万人から１２０万人まで、４０％減少したのです。この縮小し続けるマーケットで、１０００以上の大学と短大が勝ち残りレースを強いられ続けたら、体力のある学校法人だけしか残れない。かつて三大予備校の全国系列化によって、日本中の中小予備校が消えたのと同じように、日本中の中小大学が消えることになりかねない。<br />市場原理にさらせば、低コストで教育ができるシステムを作り出した大学だけが残ることになります。教育コストを下げるのは大学を「コンビニ化」することです。コンビニと同じように、全国どこのキャンパスでも同じカリキュラム、同じ教材、同じタイプの教員が同じ時間に同じことを教える。これが一番コストが安い。でも、それは高等教育そのものの死だし、受験生自身そんな大学を求めてはいません。<br />その文科省の方にも、「全国の大学の系列化をお望みなんですか？」と尋ねました。「それは違う」というお答えだった。「だったら、なぜ各大学に行政指導をしないんですか？全国一律に学生定員を削減するしかないじゃないですか？」そう言いました。論理的にはそれがいちばん合理的で、不利益の少ないソリューションなんですから。</p>
<p>――どの大学も一律に定員を減らすのが最善策だとお考えなのですか？</p>
<p>内田：そうです。18歳マーケットのサイズに合わせて、毎年各大学の入学定員を逓減してゆく。大学は地域の文化のセンターであり、緑地であり、地域経済が大学に依存している街も少なくありません。ある街から大学がなくなるということが地域社会の生活の質を損なう可能性は高い。地域に大学が存在するということそれ自体が価値あることなんです。それを市場原理にさらして、採算の悪い大学は抹消するということにして、いったい誰が得をするのですか？少なくとも大学の地元の人々は市場原理による大学淘汰につよく反対すべきでしょう。でも、そういう動きはまったくないですね。みんな、「マーケットに選択されなかった大学は消えればいい」とまるで人ごとのような顔をしている。そもそも、大学は「市場」などというものと関連づけられるべきではないのです。営利企業の人たちは、原理的に「マーケットは無限である」と考える。ニーズは「ある」ものではなく「作り出す」ものである。これは資本主義の常識ですね。でも、18歳人口を誰が増やせると言うんです？大学志願者の数を劇的に増やす方法なんかありません。社会人が仕事をやめて大学に殺到する可能性も、大学進学率がさらに急増する可能性もない。大学にとっての「市場」は単純に「１８歳人口かける進学率」で得られる数字です。そして、それは確実に減り続けています。<br />「市場」がひたすら縮小しているとき、ビジネスマンは「ニーズがないなら、ニーズを作れ」という資本主義の古典モデルを当てはめようとする。でも、これは前提が違っている。大学の「市場」はひたすら縮小し続けており、どれほど「商品開発」しようと、広告戦略を工夫しようと、市場そのものが拡大する可能性はゼロだ、ということです。どうして文科省は定員の一律削減を各大学につよく指導しないのか。僕には理由がわかりません。大学はむしろ拡大路線を突っ走っている。</p>
<p>――なぜ、拡大路線をやめないのでしょうか？</p>
<p>内田：先日大学関係者が集まる席で講演を頼まれて、ある私大の実名を出して「こんな拡大路線を続けると必ずクラッシュする」と申し上げました。そしたら、その場に当該大学の関係者がいて、そのあとの懇親会の席で「おっしゃる通りです」と言われました。<br />その方が言うには、その大学でも教職員たちの相当数は「拡大路線はもう無理だ」と思っているそうです。でも、公共事業と同じで、一度動き始めた巨大プロジェクトは止められない。ゴーサインを出した経営陣はとうに退職して、企画立案した責任者はもう学内にいない。「猫の首に鈴を付けよう」としても、肝心の「猫」がいない。誰も望んでいないままに、すでに敷かれたレールの上を暗澹たる気分で走り続けているのだそうです。<br /> 拡大路線を取る私立大はどこも似たようなものだと思います。崖に向かって突っ走るチキンレースのようなものです。どこかで拡大路線を止めるしかないのに、ブレーキペダルを最初に踏んだ大学が志願者争奪戦からドロップアウトしたとみなされる。だから、意地でもアクセルを踏み続けるしかない。でも、遠からず本当に崖から落ちる大学が出ますよ。</p>
<h2>女子大を改革する必要はあるようでどこにもない</h2>
<p>――首都圏で長い伝統を誇る女子大の多くが今、第１希望の志願者を集めるのに苦労しています。合格を出しても、併願した共学の私立大を選ぶ受験生が後を絶ちません。女子大の存在意義はどこにあると思われますか？</p>
<p>内田：本学はミッション系の女子大で、文学部・音楽学部・人間科学部のリベラル・アーツ系学部で構成されています。実学系共学校とは正反対の志向性です。でも、こういう学校だからこそ、存在意義があると僕は思います。<br /> 社会全体の知的活動を高いものにするためには「生物学的多様性」が必須です。いろいろなサイズの大学があり、いろいろな教育理念があり、いろいろな学部構成があり、いろいろな学生が各地で、それぞれの学びを経験する。その多様な知的環境こそ、社会の知的レベルを高める必須条件です。もし、巨大な私立大の数校が系列校を全国に作り、それが「コンビニ化」したら、日本の知的状況は取り返しのつかない傷を負うことになります。<br /> 東京の女子大が苦戦しているということですが、あえて苦言を呈すれば、「トレンド」を追い過ぎたせいではないでしょうか。女子大の中には、「リーダーシップの涵養」「エンパワーメント」「実学優先」などをアピールする学校を見かけますが、これは自殺行為だと思います。「共学校と同じことが学べますから女子大でも損はしません」と女子大自身が言い立てるというのは、「女子大は共学校より下です」と告知しているに等しい。初めから負け戦をして、どうするんですか。教養教育をやってきた女子大なんですから、「実学をめざす共学校では決して学べないことが学べます」と正直に言えばいい。「それなら行かない」という人もいるでしょうし、「それなら行く」という人もいるでしょう。多様性がたいせつだなんですからそれでいいんです。僕は日本中の大学がリベラルアーツ教育をしろなんて言いません。「リベラルアーツが学びたい人」はよければ来てくださいというだけのことです。</p>
<p>――ただ、現実社会と離れ過ぎた教育内容にすると、学生が集まりにくくなりませんか？</p>
<p>内田：高校生でも、権力や財貨や文化資本が欲しいと思って大学に行く人もいるし、そういうのはどうかなあと思っている人もいる。みんながみんな実学志向で、競争原理主義者であるわけがない。　こんな時代でも、貧しい人のために献身したいと考える子だっているし、わが身ひとりのことよりも環境保全や食糧自給の方がたいせつだと思っている子だっているし。うちはそんな学生が多くいますよ。「世間知らず」だとバカにする人がいるかもしれないけれど、そういう世俗的なところとは少しずれた発想をする人たちが社会には一定数必要なんです。<br />なんと言っても、本学の学院標語は「愛神愛隣」ですからね。神を愛し、隣人を愛せよ。「自分だけ勝ち残ればいい」とか「ライバルを蹴落とせ」という競争原理はそもそも本学の教育理念に反するんです。もちろん「良い成績がとりたい」と思って一生懸命に勉強するのはいいんですよ。その努力が隣人に仕えるために行われるのなら。隣人の喜びを自分の喜びにしなさい、というのが本学の変わらない基本理念であり、その考えに賛同する高校生はいつの時代も必ずいると思います。僕たちはそういう高校生に用があるんです。<br /> 少し前までリベラルアーツの女子教育はほんとうに風当たりが強かったです。ほとんど「時代遅れの遺物」扱いされていました。世の中は構造改革・規制緩和で、とにかく勝者が総取りするというルールで殺気立っていましたからね。そういうときに「愛神愛隣」というような声はなかなか届かない。でも、競争原理の時代がそろそろ終わってみたら、時代の流れとちょっとずれた本学だけがぽつんと残っていたという感じです。</p>
<p>――教育内容や制度を改革しようとは、あまり思われないのでしょうか。</p>
<p>内田：ときどきメディアの取材で「どんな改革をご計画ですか？」と当然のように聞かれます。でも、どうして改革しなくちゃいけないんですか。現行システムのどこが機能不全で、どこが比較的うまくいっているのか、そういう冷静な吟味を抜きにして、いきなり「改革を」というのはナンセンスでしょう。それは「改革」じゃなくて、単に「浮き足立っている」だけですよ。そういうふうにろくに考えもせずに、ただ大勢に付和雷同する卑屈な態度そのものをまず変革した方がいいんじゃないですか。<br />大学に限らず、学校はどちらかというとあまり変わらないほうがいいと僕は思っています。変わらないというか、社会の支配的な価値観に対抗して、壁を立てて温室を作り、そこで子どもたちを世間の荒波から守ることも学校の本来の、重大な役割のひとつでしょう。<br /> 義務教育だって、本来の趣旨は子どもを親の収奪から守るためなんです。子どもは親の価値観からいったん隔離しなければならない。僕はそう思いますよ。利己的な親は子どもを消耗品や自己実現の道具のように扱いかねないから。<br /> 学校教育は親の価値観とも、時代の支配的なイデオロギーとも一定の距離をとるべきだと僕は思います。学校に営利企業のビジネスモデルを入れれば、必ず学生を「人材」と呼ぶようになる。「人材」というのは「物品」ということでしょう。でも、工場で缶詰を作るようなつもりで教育はすべきじゃない。学校は工場じゃありません。人間を成熟させる場なんですから。</p>
<h2>偏差値を見比べるよりもキャンパスを見て歩く</h2>
<p>――入試部長に就任されて、どんなことに力を入れたいと考えていますか？</p>
<p>内田：まず、アドミッションポリシーを明確にしたいと思っています。「うちはここが他の大学と違います」ということをはっきり、強く伝えていきたい。<br />10人中９人に選ばれる大学である必要はないと僕は思っています。それよりも、10人中の１人にとことん気に入られる大学になりたい。今、18歳人口は１２０万人。大学進学率を50％だとすると、受験生は毎年60万人。その中の６００人が本学を選んでくれれば大学は継続できる。それでいいと思います。統計的に言えば、日本の高校生の１０００人に１人が「神戸女学院大学でぜひ学びたい」と思ってくれればいい。万人に選好される総花的なカリキュラムを掲げる必要なんかない。ビジネスじゃないんだから大学を大きくする必要はない。社会の「ニーズ」に合わせてめまぐるしく教育プログラムを改定する必要もない。　<br />もちろん、最近のいわゆる「実学志向」のせいで都市部ではリベラルアーツは人気がない。でも、その代わり、遠く九州や北海道から本学の存在を探り当ててくれる感度のいい高校生もいる。僕はそういう人たちときちんとコンタクトが取れればいいと思っています。「こんな大学を探していたけれど、ここにあったんですね、やっと見つけました。絶対に入ります」と言ってくれる高校生にこちらからのメッセージを届かせたい。そのためには旗じるしをもっと高く、遠くからも見えるように鮮明に掲げたいと思っています。</p>
<p>――ところで、高校生は進学先の大学をどうやって決めたら良いと思われますか。よく「将来像を固めれば行くべき大学が決まる」と言われますが、どう思われますか？</p>
<p>内田：あまり関係ないんじゃないかな。将来のことなんか、ほんとにわからないし。とりあえず感度を上げておいて、アンテナに「ヒット」したところに行けばいい。高校生だって、これからどうやって生きようかと毎日必死に考えているわけですから、どの大学が自分と周波数が合いそうなのか、感度さえよければ予兆的に分かるはずです。<br /> 大切なのは自分のアンテナで感知すること。大学や学部や学科を調べていて、ＨＰでも大学案内でも、「ピン！」と感じるものがあったら、キャンパスに足を運び歩き回ってみることです。現場に行けばいろいろなことがわかるから。<br /> 学生や教職員を細かく管理している大学なのか、自由放任している大学なのかは、キャンパスに行けばすぐにわかる。管理されている大学は誰も自分に割り当てられた以外の仕事をしようとしない。だから、表はきれいだけれど、裏が汚い。自分の管理しているエリア以外のゴミを拾う仕事を誰も引き受けないから。「きれいな学校」というのはふつう目の届かないところがきれいなんです。窓口の職員の言葉づかいとか、道を訊いたときの在学生の受け答えとか、そういうことで「校風」というのはわかってしまうものです。それを感知して、自分に合うかどうか感覚的に判断すればいい。<br />僕は、できるだけ学生にフリーハンドな大学がいいと思っています。学生に広い可動域が確保されている学校。新しいクラブを立ち上げたい、読書会をやりたい、自主ゼミをやりたいというときに、学校側が「前例のないことは許可しません」と閉じてしまう学校ではなく、「そこの空き教室を適当に使っていいよ」とか「少しぐらいならコピー機を自由に使っていいよ」と言ってくれるような大学が僕は好きですね。知的な創造はいつだってそういう「隙間」から発生するものですから。<br /> 高校生には、大学の知名度や偏差値ではなく、それぞれの大学が持つ自由さや校風や伝統など数値にならないところで感じ取ってほしいですね。１時間もキャンパスのあちこちを見れば、なんとなく相性の良し悪しが感じられるものですし、自分に合う場所かどうか判別できる力は生きていく上でも貴重な資質です。</p>]]>

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<title>「ぼおっと」過ごせる空間</title>
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<published>2009-06-08T13:31:08+09:00</published>
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<![CDATA[<p>津田塾大学の三砂ちづる先生が遊びに来たので、社交館で（というかっこいい名前のラウンジが本学にはあるのです）お茶をしました。<br />三砂先生は数年前、先生がまだブラジルから帰ってきたばかりの頃にお会いしたのが最初です。<br />お会いしたちょうどその日の朝に、朝日新聞の「人」という欄に三砂先生が紹介されていました。<br />「女性は子どもを産むことで成熟する」というフェミニストが読んだら卒倒しそうなことを書いていました。<br />ぼくはその頃「アンチ・フェミニズム」の孤塁（だったんですよ、ほんとに）を守って、「育児は楽しい。家事労働は創造的な仕事だ。他人と迷惑をかけたりかけられたりして暮らす能力は『自立』なんかよりずっと人間的に重要なものだ」と主張しておりました（主な理由は私が父子家庭の"母親"として一人娘を育てたせいですけど）。<br />若い皆さんにはぴんと来ないかも知れませんけれど、今からほんの数年前には女子大学の中でそんなことを言う教師なんて、ほんとにいなかったんです（あと一人、うちの人間科学部に頼藤先生がおられました。その二人だけ。でも、頼藤先生はしばらくしてお亡くなりになりました。すてきな先生でしたけどね）。<br />ですから、「出産・育児は苦役ではなく、人間的成長の好機である」と分娩について研究されてきた三砂先生が言ってくださったことにはずいぶんと意を強くしたのでした。<br />お会いしたら、予想通りすてきな人で、すっかり意気投合して、その後一緒に何度かお話をする機会があり、その対談録を本にしました。（『身体知－身体が教えてくれること』、バジリコ、２００６年）<br />お会いしてしばらくして、三砂先生は『オニババ化する女たち』（光文社新書、２００４年）という本を書いて、世の物議を醸しました（皆さんは中学生くらいだから覚えてないかも知れませんけど、もし、機会があったらぜひ読んでみてください。タイトルはあれですけれど、すごくきちんとした本ですよ）。<br />それから後もときどきお会いしてました。<br />最近のトピックは、「平成結婚塾」。<br />これはちょっと説明が要るんですけれど、明治大学の鹿島茂先生が「われ平成の井上馨たらん」と舞踏会を始めたのはご存じですか？<br />ご存じない。<br />あまりにまわりの若い人たちが「出会いがない」ので、恋愛も結婚もできませんと泣訴するのに業を煮やした鹿島先生が「ボーイ・ミーツ・ガールのための舞踏会」をやることにしたのです。<br />名づけて「プロジェクト鹿鳴館！」。<br />男性はタキシード、女性はあのひらひらのドレスを着てダンスを踊るんです。（その顛末については鹿島先生が最近本を書かれました。『プロジェクト鹿鳴館！』（角川書店）。これも機会があったら手にとって見てください）。<br />その同じ頃に、ぼくもまた同じ理由から、釈徹宗先生（浄土真宗如来寺住職・兵庫大学準教授）と相語らって、「佐分利信プロジェクト」というものを立ち上げました。<br />佐分利信というのは小津安二郎の映画に出て来るおじさんで・・・と言っても、高校生のみなさんはどちらもご存じないでしょうから、この話題はスルー。<br />ともかく、そのときに三砂先生も（示し合わせたわけでもないのに）まったく同じ動機から「平成結婚塾」というのを始めて、「身近にいる独身男女たちのためのマッチメーキング・ヴォランティア活動」を開始されたのでした。<br />そのトピックで三人が会って鼎談したことがあります。<br />『オール讀物』という雑誌の企画でしたけれど、面白かったですね。<br />でも、今のところ、成婚率は圧倒的に鹿島先生が優勢（なにしろ２０％）。<br />ぼくと三砂先生は２年近く活動しているのに、いまだ未勝利（こういうのを「勝利」と呼んでいいかどうか知りませんけど）。<br />まあ、そういうふうにいろいろと仲良しの三砂先生です。<br />その三砂先生と社交館でお茶をしながら、「最近の女子大生」の「傾向と対策」について貴重な情報交換をしました。<br />津田塾と本学はサイズ的には同じくらいです。全学で２５００人前後。郊外の緑の多いキャンパスにある、キリスト教精神のリベラルアーツカレッジというのも似ています（でも、津田塾はいわゆる「ミッションスクール」ではありません。創設者の津田梅子がキリスト者だったので、教育理念はもともと「キリスト教的」で、学内にチャペルもありますけれど）。<br />ですから、学生の質も似ているのかなと思ったら、やはりそれは東京の大学と阪神間の大学で、微妙に学生たちのメンタリティに違いがあるみたいです。<br />あえて、一言で言ってしまうと、神戸女学院大学の学生の方がいささかマインドが「お気楽」ということです。<br />「お気楽」というと悪い意味に取る人がいるかもしれませんけれど、ぼくが言いたいことはちょっと違って、「肩の力が抜けている」というか、「"無為"な時間を過ごすことに対してアレルギーがない」ということです。<br />もちろん、それはネガティヴに言えば、「緊張感が足りない」とか「寸暇を惜しんでばりばり勉強する意欲に乏しい」というふうにも言えるんですけれど。<br />でも、ぼくは、大学生にとっては、キャンパスで「ぼおっとしている」ということはすごく大切な"仕事"なんじゃないかと思っているんです。<br />いちばんつまらない学生生活というのは、「入学時に立てた『学習計画』に基づいて、予定通り単位を取り、資格を取り、免状を取り、検定のスコアを上げて、さくさく卒業する」というものだと僕は思います。<br />それだとコンビニで買い物するのと一緒じゃないですか。<br />買い物かごに「欲しいもの」を放り込んで、レジで精算して、店を出る。<br />たしかに店に入る前に「持っていなかったもの」を、代償を払って所有することはできました。<br />でも、人間はまったく変わっていないでしょう。<br />品物が増えただけで、人間は変わらない。<br />そうですよね。<br />「買い物」とはそういうものです。<br />店に入る前には「すごく欲しかったもの」が、いざレジでお金を払う段になったら「何の興味もないもの」に変わっていたら、買い物はできません。<br />「買い物」の基本ルールは「消費者は（その欲望も、知性も、身体組成も、何も）消費活動を通じてまったく変化しない」ということです。<br />考えていることも、感じていることも、欲しいものも、「買う前と買った後」で絶対に変化してはならない。<br />どれほど長い間売り場で過ごしても、買い物している限り、「時間が経過しない」んです。<br />というより、時間が経過してはならない。<br />消費活動というのは本質的に無時間的なものであり、無時間的でなければならない。<br />それは「消費者」にかけられたある種の「呪い」です。<br />いや、別にそれが悪いと言っているのではないのです。<br />経済活動なら、それでいいんです（欲望の発生と商品の獲得の時間差を「ゼロ」にすることがすべての経済活動の目標なんですから）。<br />でも、教育は「買い物」ではありません。<br />教育がめざすのは「買い物かごに入っている品物を増やすこと」ではなくて、「買い物客自身が、店に入る前と出たときでは別人になっていること」です。<br />店に入る前には「あれが欲しい」と切望していたものが、お店であれこれ見ているうちに「別に要らないや」ということになって、それとはぜんぜん違うものが欲しくなったり、あるいは、あれこれ見ているうちに、「あ、いけね。こんなところでこんなことしている場合じゃないんだ」と店から走り出たり。<br />教育とは「そういうこと」です。<br />学校教育の目標は一つだけです。<br />それは「成熟すること」です。<br />もし学校に入ったけれど、入学前と卒業時で、考えていることも感じていることも、価値判断も美意識も、まったく変化していない人がいたら、その人は残念ながら、「教育を受け損なった」ということになります。<br />そんなつまらない学生生活を送ってはいけません。<br />「成熟」には時間がかかります。<br />生物の場合といっしょです。<br />「背を高くしたい」と思って、腹がちぎれるほどご飯を詰め込んでも、すぐには大きくなりません。<br />ご飯を咀嚼して、消化して、吸収して、それが養分となって行き渡り、代謝システムが書き換えられ、骨が太くなり、筋肉がついて、血管や神経も長くなって、ようやくちょっとだけ背が伸びる。<br />ご飯を食べたあとは、しばらく「ごろん」と横になって、それがしっかり身につくのを待たなければいけません。<br />教育もそれと一緒です。<br />ほんとうに学ぶ価値のあることを学んだときに人間の精神は「休息」を要求します。<br />ちょっと待ってね。いま、あまりに思いがけないことを聴いたので、「頭がびっくりしている」<br />ちょっと、休ませて。<br />頭が落ち着くまで。<br />そういう印象をもつことがありますでしょう（まだ、ないかな）。<br />そういう機会に出会えるのが大学で経験できる最良のことなんです。<br />「頭がびっくりしている」ときに、また次の授業をすぐ聴いたり、キャンパスから走り出てバイトに行ったり、友だちとカラオケに行って歌いまくったり・・ということはしないほうがいいです。<br />せっかく「びっくり」しているんだから。<br />ゆっくり「びっくり」させてあげましょうよ。<br />そのためには「肩の力を抜いて」、キャンパスの中で、しばらく「ぼおっと」していることが必要です。<br />緑の草木を眺めたり、花を見たり、昼寝している猫のおなかを眺めたり、図書館で本を開いてそのまま中空をみつめていたり、チャペルでパイプオルガンの練習を聴いたり、グラウンドを走り回っている選手たちの歓声を聴いたり、麦わら帽子をかぶって中庭を耕している寮生を眺めたり、そういう「無為な時間」が「びっくしした頭」を鎮静させて、いま頭をぐらぐら壊乱した何かがしかるべき場所に落ち着くためには必要なんです。<br />だから本来、高等教育のキャンパスには「誰にも邪魔されず、ぼおっと無為な時間を過ごすことができるための空間」が人数分用意されていなければならない。<br />ぼくはそう思っています。<br />たぶん、ケンブリッジとかオックスフォードとかハーヴァードとかそういう大学はそういうふうになっているはずです（パリ大学は違います。フランスの大学には建物だけしかありません。でもその代わりに、校舎を一歩出ると、街には「ぼおっと」用のスペースがほとんど無限にあります。だから、パリは「知性の都」と呼ばれるゆえんなんです）。<br />教育とは何か、学問とは何かということがわかっていれば、必ずそうなるはずなんです。<br />でも、残念ながら、そのような空間的「無駄」が大学教育には死活的に重要だと考えている大学人は現代日本にはほとんどいません。<br />みなさんすっかりビジネスマインデッドになって、「坪単価」とか「回転率」とか、そういうせこいワーディングでキャンパスデザインを論じています。<br />さいわい、本学は「そういう空間」だけはたっぷりあります。<br />これは設計したヴォーリズさんが「教育」というものについて深い洞察力を備えていたからだと僕は思います。<br />本学のヴォーリズ設計の学舎には「引っ込んだところ」がやたら多いんです。<br />ほんとに。<br />廊下の途中に意味不明の「へこみ」があって、古い長椅子が置いてある。<br />壁の裏に「隠し階段」がある。<br />隠し階段を登ると昼寝のできる「隠し部屋」がある。<br />理学館に「隠し三階」と「隠し屋上」があるのを発見したのは、ぼくが赴任して５年目のことでした。<br />理事室の奧に「隠しトイレ」があるのを発見するまで、１７年かかりました。<br />「誰にも邪魔されない場所」「自分だけの隠れ家みたいな場所」をそこらじゅうに仕掛けておかないとキャンパスは機能しない。<br />たぶんヴォーリズさんは直感的にそう理解したんだと思います。<br />この大学に２０年勤めて、いまでもぼくはふと廊下の角を曲がったときなんかに、この設計者のお茶目な「悪戯心」と教育についての見識の高さに驚かされます。<br />「ぼおっとしていること」が空間的にこれほど勧奨されているキャンパスというのは、日本でも例外的なんじゃないかと思います。<br />たぶん、それが「肩の力が抜けている」「無為な時間を過ごすことが得意」という本学学生のきわだった特性の涵養にもつながっているのかと思います。<br />優等生で、親の期待を一身に担って、めいっぱい努力している学生たちの陥る心理的な苦しみについて、三砂先生としばらくお話をしました。<br />そういう学生のためには、「あなたは、ここでのんびりしていていいんだよ」という場所と人間関係が絶対必要だよねということで三砂先生と意見の一致を見たのでした。<br />高校生のみなさんも、いろいろと気苦労の多い人生を送っておられることと思いますが、これから先の長い人生をハッピー・ゴー・ラッキーに過ごすためには、大学を選ぶときには「無為な時間を気分よく過ごすためのファシリティ」がどれだけ整備されているかをひとつの目安にすることをぜひお薦めします。</p>]]>

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<title>アドミッションポリシー 2</title>
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<published>2009-05-07T09:18:20+09:00</published>
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<![CDATA[<p>2010年度入試のアドミッションポリシーの起案を入学センターのヒラヤマ課長に頼まれたので、さらさらと書きました。「アドミッションポリシー」というのは前回書きましたけれど、大学が「どんな人に来てほしいか」、その希望を記すものです。<br />それを基準にして、受験生たちは大学を選ぶという建前ですから、その大学の個性が良くも悪くもはっきり打ち出されていなくては意味がない。私はそう思います。<br />こういう作文をするとき、私たちはどうしても「当たり障りのないこと」を書いてしまう傾向があります。<br />なにしろ、大学の「政策」を起案するわけですから、学内の教職員学生同窓生たちから「それは違うんじゃないですか」と言われては困ります。<br />誰からも文句が出ないような文言を選んでしまう。<br />するとどうなるか。<br />「沈香も焚かず屁もひらず」という言葉がありますが（女子高校生はたぶん知らないでしょうけど）、「芳香もしないし、悪臭もしない」つまり、何の匂いもしない文章になってしまう。<br />たしかに、どこにも違和感がないから、さらさら読める。でも、一読したあと、誰もその内容を覚えていない。<br />そういう「毒にも薬にもならない」（「沈香」よりこっちの方がよかったですね）メッセージを発信しがちになる。<br />でも、そういうのはあまり意味がないと思うんです。<br />というのは、大学というのはそれぞれが個性的なものであって、それぞれ違う教育理念を掲げて、「よそとは違います」ということがはっきり示されていないと、「ポリシー」を手掛かりに志望大学を選ぼうとしている高校生たちにはあまり役に立たないからです。<br />私は教育機関は「旗幟鮮明」にすべきであると思っています。<br />これについて村上春樹さんが書いていることに私は深く共感するのであります。<br />村上さんは作家になる前にはジャズバーをやっていました。<br />そして、バーの経営と作家としての活動の基本的なポリシーは変わらないと書いています。<br />「『みんなにいい顔はできない』、平ったく言えばそういうことになる。<br />店を経営しているときもだいたい同じような方針でやっていた。店にはたくさんの客がやってくる。その十人に一人が『なかなか良い店だな。気に入った。また来よう』と思ってくれればそれでいい。十人のうち一人がリピーターになってくれれば、経営は成り立っていく。逆に言えば、十人のうち九人に気に入ってもらえなくても、べつにかまわないわけだ。そう考えると気が楽になる。しかしその『一人』には確実に、とことん気に入ってもらう必要がある。そしてそのためには経営者は、明確な姿勢と哲学のようなものを旗じるしとして掲げ、それを辛抱強く、風雨に耐えて維持していかなくてはならない。それが店の経営から身をもって学んだことだった。」（『走ることについて語るときに僕が語ること』）<br />村上さんは文学の話をしているわけですけれど、私はこの文章はそのまま大学の話として読むことできると思います。<br />高校生たちの十人のうち九人に「いい大学だ」と思われなくてもいい。<br />ぜんぜんそんな必要はないのです。<br />うちの場合なら、毎年６００人ほどの入学者がいれば十分なんですから。<br />１８歳人口は１２０万人、大学進学率が５０％としても、６０万人。<br />そのうちの６００人に選ばれればいいわけですから、計算上は１０００人に１人でいい。<br />ただし、日本の高校生の１０００人に１人に「確実に、とことん気に入ってもらう必要がある」。<br />その条件って何だと思いますか？<br />これは長く生きてきてわかったんですけれど、「確実に、とことん気に入ってもらう」ために必要な条件というのは、「この良さがわかっているのは、もしかすると私だけかもしれない」ということなんです。<br />恋愛といっしょです。<br />「あの人のほんとうの良さがわかっているのは私だけだ」という「選ばれてあること」の意識が恋愛感情にエネルギーを備給するということについては、みなさんも経験的にうなずかれることでしょう。<br />でも、これってよく考えると変ですよね。<br />「あの人のほんとうの良さがわかっているのは私だけだ」というのは、言い換えると、「あの人の良さ」は「あなた以外の人」にはかなり「わかりにくいもの」であるということですから。<br />ふつうの人はあまり評価しない（できない）ような特異な資質に着目して、「なんで、みんなはわからないんだろう。ここがいいんじゃない」という、いらだちに似た感情が、「確実に、とことん気に入ってもらう」ためには必須なのです。<br />私は学校というのも多かれ少なかれ「そういうもの」であるべきではないかと思っています。<br />別に日本人すべてから評価され、気に入られる必要なんかない。<br />「この学校の真価を理解しているのは私たちだけだ」と確信して、とことん気に入ってくれる人たちが「一握り」いさえすれば成立する、そういう事業であるべきだと私は思います。<br />同学齢集団のうちの数万人に気に入られる学校であろうとしたら、「明確な姿勢と哲学のようなものを旗じるしとして掲げ」ることはきわめて困難となります。<br />その意味で私は一貫して大学の「拡大路線」に批判的です。<br />学校は（大学に限りません）、ある規模を超えてはならない。<br />私はそう信じています。<br />村上春樹さんがもしジャズバーの経営をしているうちに、「リピーター倍増計画」を立案して、マニュアルを作り、支店を展開して、チェーン展開した場合、何が起きたでしょう。<br />もしかすると、わりと感じのいいジャズバーの全国チェーンができて、その創業者として巨額のキャピタルゲインを手にした村上さんは今頃ハワイあたりで悠々自適していたかもしれません。でも、私たちはその代価に世界的な作家を一人失うことになる。<br />「どちらがいい？」というような問いのたて方は意味がないし、フェアでもないですけれど、たまにはそういう想像してみてもいいんじゃないですか。</p>
<p>というようなことを考えてアドミッションポリシーを書きました。</p>
<p>こんな文章です。</p>
<h2>アドミッションポリシー</h2>
<p>神戸女学院大学は建学以来134年、「<strong>愛神愛隣</strong>」の学院標語を掲げて、日本の女子教育の先頭に立ってきました。私たちはこの知的伝統のよき担い手となる人々を求めています。</p>
<h2>教育理念・教育方法</h2>
<p>本学の教育の根幹をなすのは、神を愛し、隣人を愛する<strong>キリスト教主義</strong>の思想に基づき、国境や言語や文化の差異を超えて、すべての人々と理解と共感の場を立ち上げる<strong>国際理解</strong>の理念です。そのための知恵と力を培うために、充実した<strong>リベラルアーツ&amp;サイエンス</strong>のカリキュラムを整備し、密度の高い教育を行うための徹底した<strong>少人数教育</strong>を実行しています。</p>]]>

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<title>アドミッションポリシー</title>
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<published>2009-04-17T14:08:48+09:00</published>
<updated>2009-04-17T14:08:48+09:00</updated>
<summary>みなさん、こんにちは。「入試部長のひとり言」の第二回です。間をあけてしまってすみません。まだＨＰの設計が終わってないと聴いていたので、前回の分がアップロードされ...</summary>
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<![CDATA[<p>みなさん、こんにちは。「入試部長のひとり言」の第二回です。間をあけてしまってすみません。まだＨＰの設計が終わってないと聴いていたので、前回の分がアップロードされていないのかなと思っていたら、もう始まっていたんですね。</p>
<p>では、早速。</p>
<p>今回は本学の「アドミッションポリシー」についてお話ししたいと思います。<br />「アドミッションポリシー」というのは「入学者選考の基準」です。<br />企業だったら「雇用戦略」というところですけれど、「こういう学生に入学してほしい」というこちらの希望を明らかにすることです。<br />ところが、いきなりですけれど、そんな希望を述べる余裕が大学サイドにあるのか、という問題がまずあります。<br />なんと言っても大学全入時代ですからね。<br />名の知れたたいそうな大学でも「そんな悠長なこと言ってられません」と見栄も体裁もかなぐり棄てて、「とにかく1人でも多くの志願者を集めて、上から点数で輪切りにして採る」という手荒なアドミッションをしております。<br />でも、そういうのは短期的にはやむを得ないのかもしれませんけれど、中長期的には「自分で自分の首を絞める」ことになると私は思います。<br />それって大学サイドのメッセージは「要するに誰でもよかったんだよ」ということですからね。「キミじゃなくてもよかったんだよ。そこそこの偏差値で、入学金と授業料をきちんと払ってくれるなら」と大学に言われて喜ぶ人はおりません。<br />名分から言えば、「この学校にぜひ入りたい。そこで学びたい」という学生であれば迎え入れる、そういう学生だけを迎え入れるというのが本来の学校のあり方だと思います。<br />「本来の学校のあり方」なんて悠長なことを言っている状況じゃないんだよという悲鳴があちこちから聞こえてきますけれど、でも、もしメディアが喧伝するように、いまが「大学冬の時代」であるというのが本当なら、「大学教育の危機」というのがほんとうなら、そういうときこそ、「大学は何のためにあるのか？」という根本の問いに立ち帰って、そこから考えるべきだと私は思います。<br />大学は「本来の学校のあり方」についてつねに自問するという、愚直で、「悠長な」問いを手放してはならない。迂遠な問いですし、いくら考えても、ぴったりとくる答えが得られないかもしれませんけれど、それを問わない大学は教育機関としての存在理由を維持しえないと思います。<br />あらゆる組織は一定以上のサイズになると、「組織そのものの存続」が自己目的化します。これは組織の生理ですから、止めようがない。<br />学校も例外ではありません。<br />ある程度の期間継続し、ある程度以上大きくなると、「そもそも何のためにこの大学は創設されたのか？」という起源についての問いが忘れられて、「とにかく存続すること」が優先されてしまう。<br />でも、いささか先走った言い分ですけれど、大学教育というのは、「自らの根拠についての問い」を立てることのできるような知性を育てることを目的としているのではないでしょうか。<br />「自分は何のために存在するのか？」を問うことのできない教育機関が、「自分は何のために存在するのか？」と自分に問うことができるような人間を育てることができるでしょうか？<br />「自分はなんのために存在するのか？」<br />この問いには二つの方向があります。<br />ひとつは「どのような歴史的経緯で自分は存在するようになったのか？」という「起源についての問い」。<br />人間の場合だったら、「どうして自分はこんな人間であるのか、こんな人間になったのか」という「来し方」について問うことです。<br />どういう家庭だったのか、どういう友人と出会ったか、どういうトラウマ的経験をしたのか、どういう本を読んで影響されたか・・・などなど。自分が「こんな人間」になった理由を問うことです。<br />でも、「自分はなんのために存在するのか？」という問いにはもうひとつ「行く末」についての問いを含んでいます。<br />「私はいったいどのような役割を果たすべくこの世に生まれたのか？」<br />これは未来にかかわる問いです。<br />自分が「こんな人間」であるのは、どのような使命を果たすためにそうなったのか、それを問うことです。<br />学校についても同じだと私は思います。<br />「こんな人間」が二人いないのと同じように、「こんな大学」も二つとありません。<br />「こんな大学」が存在するのは、どんな使命を果たすためなのか。<br />それについて考えています。</p>
<p>『大学ランキング２０１０年版』という本に、「女子大ランキング」というコラムがあって、そこに思うところを寄稿しましたので、それを貼り付けておきます。ぜひご一読ください。</p>
<p>小学校から大学院までずっと公立学校ばかり通っていたが、どういう風の吹き回しか、３０代の終わりにミッションスクールの女子大の教師に採用された。そこで生まれてはじめて「女子大文化」というものに触れた。驚くべき体験であった。私の教育についての固定観念はほとんど根本から覆された。そのときに刷り込まれた「女子大という"特殊な教育空間"は社会になくてはならぬものである」という私の確信は２０年経っても変わらない。むしろ、日々深まっている。それについて書きたいと思う。<br />「女子大の存在意義とは何でしょう？」という質問をよく受ける。その質問にはもちろん語られざる前段があり、それは「女子大に存在意義はない」という予断である。そう問う人の多くはおそらく女子大の教育理念を前時代的な「良妻賢母教育」だと思っている。「今頃、そんなアナクロな教育してどうするんですか。男女共同参画社会の理念に逆行してませんか？」という棘のある冷笑を浴びせられたことがこれまでに何度もある。<br />これに困惑して、女子大の存在意義として、「女子大でも立身出世に役立つ教育はできます」ととんちんかんなことを言い出す大学人もいる（いる、というより大変多い）。曰く、男子学生がいないとゼミやクラブ活動などでリーダーシップをとらざるを得ず、結果的に「女性のリーダーシップの涵養」に有用である、と。「女性のエンパワーメント」のために、カリキュラムは「実学優先」を再編していると胸を張り、「場合によっては共学化も視野に」というあたりまで口が滑る人もいる。<br />申し訳ないが、私はこういう考え方にはまったく同意することができない。というのは彼らが持ち上げる「リーダーシップ」や「パワー」や「実学」を私は格別ありがたいものだと思っていないからである。<br />たしかにリーダーシップは大切である。だが、「リーダーではない組織成員の心得（非リーダーシップ）」も同じように（場合によってはそれ以上に）大切な資質だと私は考えている。現に、私たちが生き暮らしている組織はリーダーだけで形成されているわけではない。経験的に言えば、みんながリーダーになりたがってイニシアティヴ争奪に明け暮れている組織よりも、「引くときには引き、譲るところでは譲り、立てるところでは立てる」という技術に長けた人々を多く含む組織の方があきらかにパフォーマンスが高い。共同的に生きる場で社会的能力は「多様な他者と共生し、協働できる能力」であり、それは「リーダーシップ」という語では言い尽くすことができない。集団が機能するためにはリーダーシップ以外に実にさまざまなものが必要である。「合意形成のためにこまめに周旋する仲介センス」、「落ち込んでいる仲間を励ます癒しの力」、「うまく自己表現できない人の意思を代弁する言葉の豊かさ」、「暗鬱な局面で場を盛り上げる気楽さ」、「安易な満場一致に冷水を浴びせるクールな批評性」などはひとりひとり担当者がいて分掌されるべきものであり、リーダーがそのすべてをこなし、残る全員は何もしないで唯々諾々とそれに従うだけというような集団を私たちは理想としているわけではない。どうして「リーダーシップの涵養」だけが選択的に優先されなければならないのか、誰かその理路を私に説明して欲しい同じように、パワー礼賛にも私は同意しない。「エンパワーメント」をめざす大学人は自校の卒業生から政治家や官僚や医者や起業家などが輩出することを喜ぶのであろう。けれども、彼らはそのとき「権力、財貨、威信、情報、文化資本などを獲得することは無条件によいことである」という価値観を無邪気に肯定している。それは「権力がなく、金がなく、威信がなく、情報に疎く、教養のない人間には生きている価値がない」という残酷な宣告に同意署することでもある。<br />世に「実学」と呼ばれるのは、平たく言えば、「教育投資が迅速かつ確実に回収できそうな学科」のことである。数学や植物学が有用な学問であることに異議のある人はいないが、これらの学問は「実学」とは言われない。金にならないからである。「金融工学」は去年までは「実学」だったが、今年はどうか。「実学優先」というのは要するに「それを勉強すると高い年収が得られますか？」という子どもや保護者からの問いかけを「下品」だと思わない感覚のことである。世に下品な人間が多いことはやむを得ないが、別に大学が率先して下品になってみせることはあるまい。<br />「立身出世主義」は教育目標として優先的に掲げられるべきものではない。私はそう思っている。放っておいても人間はつい利己的にふるまってしまうものである。教育機関がそれに棹さしてどうする。それよりは、自己利益を優先させる生き方を「恥じる」感覚や、そのような自分に「疚しさ」を覚える感覚や、それよりももっと人間にとって大切なものがあるのではないかと「疑う」感覚の方がずっと大切なのではないか。高等教育はそのような深みのある知性をこそ育てるべきなのではないか。<br />冒頭に私は「特殊な教育空間」と書いたが、日本の女子大は実際、その草創のときからこれまでよく「反・立身出世主義的教育」のケルンとして機能してきたと思う。たとえ少数ではあれ、このような教育理念に基づく教育機関は存在しなければならない。それはこの国を懐の深い、手触りの優しい、厚みのある空間にするためには必須のものだと私は考えている。</p>]]>

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<title>神戸女学院大学入試部長の内田樹（うちだ・たつる）です。</title>
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<published>2009-04-06T12:38:57+09:00</published>
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<summary>入試部長のひとり言というお題で入学センターの空き部屋を間借りして、不定期にコラムを書くことになりました。みなさん、こんにちは。神戸女学院大学入試部長の内田樹（う...</summary>
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<![CDATA[<p>入試部長のひとり言というお題で入学センターの空き部屋を間借りして、不定期にコラムを書くことになりました。みなさん、こんにちは。神戸女学院大学入試部長の内田樹（うちだ・たつる）です。よろしくお願いします。</p>
<p>一応、このコラムは「受験生が読む」ということを想定しておりますので、想定読者は女子高校生です。<br />むずかしそうですね。女子高校生プロパーの文章なんか書いたことないから。<br />とりあえず、こういうときの慣例として、自己紹介から始めます。<br />1950年東京大田区下丸子生まれ。<br />大田区生まれの学者ってあんまりいないんですよね。<br />前に同じ大田区の六郷生まれの柴田元幸さんとおしゃべりしたときに、どこかの雑誌で「大田区生まれの文化人対談」という企画があって、そのとき編集者が「大田区生まれの文化人て、柴田さんと鈴木慶一さんくらいしかいないんですよね」と言っていたそうです。<br />鈴木慶一なんていっても、若い人は知らないでしょうけど、それにしてもそんなに文化不毛の地とは知りませんでした・・・<br />大田区のそういうわりとがさがさした、町工場が立ち並んでいるようなところの育ちです。<br />大田区立矢口西小学校に５年生までいて、東調布第三小学校に１年半いました。そのときの同級生がそのあと終生の友となる平川克美くん。<br />彼とはそのあといっしょに同人誌を始め、いっしょに会社を起業し、いっしょに本（『東京ファイティングキッズ』シリーズ）を出しました。<br />中学は大田区立矢口中学校。<br />中学生の頃は何してたのかな。<br />最初は剣道部に入って、生徒会の役員して「優等生のふり」をしていました。<br />そのあと、ロックを聴きだして、映画を見て、こむずかしい本を読み出して、受験勉強。<br />中学生時代の特記事項といえば、「SFFC（SF　Fan's Club）」に入会して、全国の超絶ナマイキ中学生たちとのネットワークを形成したこと。<br />SFFCではそのあといっしょに本（『映画は死んだ』）を出すことになる松下正己くんと東京支部を立ち上げ、『Traitors』というファンジン（同人誌）を発行しました。<br />そのときに大阪支部で『Madness』というファンジンを出していたのが、山本浩二くん（画家で、今本学の非常勤講師）。山本くんともそれから今日まで長い付き合いになりました。<br />高校は東京都立日比谷高校です。<br />そのころ灘高と「東大合格者数日本一」を競っていた超進学校でしたけれど、なかなかスマートで、ソフィスティケイトされた少年たちの多い学校でした。<br />ぼくは町工場と多摩川の原っぱの中で育ったがさつな少年だったので、「おお、シティボーイというのはこういうものか」と感心した記憶があります。<br />でも高校は二年で中退。<br />これについては書き出すと長くなるので割愛。<br />べつに高校に不満があったわけじゃないんです。<br />つい先週も高校の同窓会に招かれて講演して、先輩後輩のみなさんと歓談してきたくらいですから。<br />私が高校に不満というよりむしろ高校が私に不満だった、と。<br />そういうふうにご理解いただければと思います。<br />そのあといろいろあって1970年に東京大学教養学部文科III類に入学。<br />時あたかも70年、ベトナムでは壮絶な戦争が行われ、隣国は文化大革命、ゲバラはボリビアでゲリラ活動中、アメリカではブラックパンサーが武装闘争を呼号し、本邦では安保闘争という世界をあげての政治闘争の激動期。ラブ＆ピースのヒッピー・ムーヴメント。そのときこちらは二十歳ですからもう大変。「あんなこと」や「こんなこと」もあり、とりあえず無傷でこの疾風怒濤の時代を泳ぎ抜き、１９７５年に東京大学文学部仏文科を卒業。卒業論文はメルロー=ポンティでした。<br />阪大総長の鷲田清一先生とその後お会いしたとき、ワシダ先生も卒論がメルロー=ポンティだったとうかがって「メルロー=ポンティは、いいですよね～」と固い握手をかわしたのでした。<br />でも、卒業して、そのまま無業者。<br />いろいろなバイトで食いつないでいるうちに、1977年に平川君から「いっしょにやらない」と誘われて翻訳会社を起業します。<br />同時に東京都立大学の大学院にも進学し、「経営者と院生」の二足の草鞋を履くことになります。<br />翻訳会社は時流に乗って大当たり。四人で始めた事業もたちまち拡大、社員もどんどん増えて、やがて東京屈指の翻訳会社、編集プロダクション、コンサルタント会社への成長してゆくのですが、それはもっぱら平川君の経営者としての天才的手腕によるもので、ぼくは途中からビジネスから足を洗い、1980年に修士論文『モーリス･ブランショの死について』で修士号をとって、博士課程に入ります。<br />1982年に人文学部仏文専攻の助手に採用されて、公務員というものになりました（辞令の発令者は「東京都知事青島幸男」でした。まさか青島幸男から助手の辞令をもらうことになるとは、中学生のときに『シャボン玉ホリデー』を見ているときは想像もしませんでした）。（と書いたら、千葉の読者のかたから、青島幸男が知事になったのはもっとずっと後ですというご指摘をいただきました。そういわれてみたら、同じ間違いを前にも一度していて、これが二度目なのでした。よほど青島幸男から辞令をもらいたかったんでしょうね。私に辞令発行したのは鈴木俊一知事でした。人間の記憶はこんなふうに抑圧され改竄されるのであるという事実の実例としてお笑いください。）<br />そこで助手を８年つとめ、1990年に神戸女学院大学文学部総合文化学科に助教授として採用されて、ついに桜の咲き乱れる「岡田山の人」となったのであります。<br />しかし、こんな調子で自己史を書いているときりがないので、このへんにしときましょう。<br />あとは「中抜き」で、「それから19年経って、2009年４月から入試部長を拝命しました」で今日はおしまい。<br />そういう波乱の生涯の果てにたどりついたのが、入試業務なんですけれど、きっとこれには俗眼には窺い知れぬ神のご配慮があるのでありましょう。</p>]]>

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