大学生活のツボのツボ

旺文社の『螢雪時代』2009年8月号にインタビューが載りました。
この「入試部長のひとり言」にも転載します。

肩の力を抜いてボーっとキャンパスへ入れ

『螢雪時代』の読者のみなさん、こんにちは。
内田樹です。「樹」は「たつる」と読みます。今日は、受験勉強のゴールである大学に入ってからみなさんにしてもらいたいことをお話します。
勉強の邪魔になるといけないので、結論を先に言いましょう。大学に行くことの意味は、その存在さえ知らなかった学問と出会うことです。具体的に言うと、卒業するときに、「まさか自分がこんなことを勉強することになるとは思わなかった・・・」という感想を持つことです。そういう感想を抱くことができたら、大学教育は成功した、と言ってよいと思います。
その逆を考えれば、どういうのがいけないのかわかります。

大学の新入生を見ていると、1年生から卒業までスケジュールを決めて、予定表をびっしり作ってしまっている人がいます。これは意味がありません。それじゃまるで、監獄に入っている囚人が出獄の日が来るのを数えて、壁にしるしをつけているようなものです。そんなふうに予定をこなしていくだけの味気ない4年間にしてはもったいない。

それに予定を事細かに決めてしまうと、未知なものを受け入れる余地がなくなってしまう。みなさんは自分が学ぶべきことをあらかじめきちんとリストにしておいて、その通りに学習することをものを学ぶことの標準的なかたちだと思っているかも知れませんけれど、違いますよ。そんなことをしても、たいしたことは学べません。学ぶというのは「自分が知らないことを学ぶ」のではなく、「自分がそれを知らないということさえ知らなかったことを学ぶ」という一つ次数の高い営みなんです。

大学で何をしようとか、どんな資格を取ろうといったことは、今はあまり考えない方がいい。入学に際して必要なのは、自分の頭を開放し、「学びの姿勢」をもつことだけ。これがしたいとかこれはしたくないといったことを決めつけてしまうには、18 歳という年齢はあまりに若い。それより、肩の力を抜いてボーっとキャンパスに入っていくのが理想的です。妙に力まず、緊張もせず、先入観を持たないで体や頭を透明にしておき、自分自身のアンテナの感度を上げ、れます。そのアンテナに何が引っかかってくるかを待つこと。それが一番生産的な姿勢です。

新たなプレーヤーとして「ゲーム」に参加せよ

私が大学を選んだときの一番大きな理由は高校時代に、柴田翔という人が書いた小説『されどわれらが日々』を読んだことです。その小説に描かれた東大生たちの様子を見て、どうもこの「大学」はずいぶん異常なところらしいということがわかりました。妙な人々が跳梁跋扈していて、理解しがたい言語を語っている。大江健三郎の東大を舞台にした小説も、受験のモチベーションをずいぶん上げてくれました。その大学に行くと「こんないいことがある」というふうにふつうに言われることが書かれているからではなく、やはり奇態な人々が、私にはルールのわからないゲームをしているように思えたからです。なんだかしらないけれど、そこに自分も参加してみたい。そんなふうに思いました。

現代の漫画にも、農業大学を舞台に奇人変人がうごめく姿を描いた『もやしもん』とか、美術大学生の生活を描いた『ハチミツとクローバー』などがありますね。ここでも農大や美大の「大学案内」に書いてあるような「いいこと」が描いてあるわけではありません。でも、高校生はこういうものを読んで、「なんだか、変な空間だな、自分もそこに入ってみたいな」と思う。だから、志願者が殺到するんでしょうね。少し前だと『動物のお医者さん』という漫画があって、このときは北大の獣医学科の倍率がはねあがりました。これも、獣医学科に行くと、こんなに「いいこと」があるとうい話じゃなくて、むしろ奇怪な教授たちや理解不能の先輩たちにひっかきまわされて、とんでもない目に遭う、という話なんです。だから、ほんとうはみなさんだって、大学に行きたい一番大きな理由は「わけのわからない人たち」に会いたいからなんです。そういう人たちにひっかきまわされて、自分が変わることを無意識には望んでいるはずなんです。「大学に入っても俺のスタイルは変えないぜ」とか「私の価値観はゆるがない」というようなことを言ってるうちダメです。

90分の授業を受けたら3時間は安静に!

自分を武装解除し、自分が無知、無垢、無防備であるという状態を許してキャンパスの中をフワフワ、フラフラする。大学とは、そういうふうに過ごすために作られた制度です。キャンパス内で目的なくふらふら歩いている学生をとがめる人はいません。何時間ベンチに座っていようが、図書館にこもっていようが、自分が取っていない授業をこっそり受講しよう、誰にもとがめられない。誰も監視していないし、誰にも自分のしていることを報告する義務がない。時間の使い方がこれだけ自由にできるのは一生のうちにほとんどありません。たぶん大学生のときと定年後だけです。

だから、私は学生たちに、なるべく長い時間、大学のキャンパス内にいるように言っています。それから、授業も取りすぎてはいけません。せいぜい1日に2コマか3コマまで。というのは、90分の授業を聞いたら、その授業の内容が体にしみこむのに、まで、少なくともその2倍の3時間ぐらいはかかるからです。講義中に先生が話したことの中に、何か引っかかることがある。違和感や反発、あるいは共感などを自分の中に定着させるにはある程度の時間がかかります。「頭が驚いている」ときには、すぐに次の行動を取らない方がいい。次の授業に出たり、息せき切ってアルバイトに行ったりしたら、せっかく頭の中が生産的にぐちゃぐちゃになったのに、台無しです。授業が終わったら、とりあえず図書館に行くとか、音楽を聴くとか、散歩するとか、何でもいいのですが、とくに目的もなく、「無為」な時間をキャンパスの中で過ごすことが必要です。それが知的に入力されたことが自分の中に沈殿して、地面に根を下ろすために必要な時間なのです。

高等教育には、そういう「生産的に無為な時間」が絶対に必要です。でも、こういう理屈は、大学以外ではまず通りません。社会に出れば、ビジネスの論理で、「その無為の時間のもたらす利益を数値的に実証してみろ」と言われても、答えようがありません。それが許されるのは大学にいる間だけです。大学にいる間は、市場経済の用語で考えるのは止めておきましょう。

大学には「学年暦」というものがあります。入学式がいつで、夏休みはいつからとか、そういうことが決めてあるのですけれど、わざわざそれを「学年暦」と称して、教授会の議事にしている。それだけ重要な案件だということです。それは、大学の中には外の世間とは違う時間が流れているということの宣言だからです。外の世界とは隔離された時間の中で過ごす。それが大学の意味なのです。

自分の感性を信じ、やりたいことをやるのが一番

大学は就職のためのプロセスだと考えている人がいます。今はこういう職業に需要があり、高い年収が保証されているといった情報をもとにして卒業後の進路を決め、それに直結する専門的な知識や情報を大学で身につけたいと考えている。社会に出てからすぐに役立つ知識や技術のことを「実学」と言います。でも、実学というのは思いのほか賞味期限が短いものです。今はこういう業種が華やかで、そこで働いている人たちは高収入を得ているという情報を聴きつけて、では、それを勉強しよう・・・と思ったときには、すでに10年は現実に遅れています。だって、時代はどんどん変わっていくんですから。僕らが卒業したころは、百貨店と広告と出版社が花形業界でした。金融工学は去年までは「実学」でしたけれど、来年はどうでしょう。

一般教養を通じて自分の潜在能力を発見せよ

みなさんに大学で学んでほしいのは、就職に直結するように見える学問ではなく、もう少し本質的な知性のパフォーマンスを高める方法です。別の言葉で言えば、どうすれば自分の脳の機能を上げることができるのか。

たとえば、ここに車がある。目的地が示される。では、とアクセルを踏んで走り始める前に、自分が乗る車の状態をまずチェックするでしょう。ガソリンがあるかどうか、ブレーキは効くかどうか、タイヤの空気圧はどうか、オイルはどうか。必ず点検するでしょう。いきなり走りだすわけじゃない。みなさんの知性だってそれといっしょです。使う前にまず始業点検しなければいけない。自分の心身が最高のパフォーマンスを発揮するための条件は何か、それを知らなければなりません。自分の心身の特性をじっくりモニターして、それが最高の性能を発揮するような運転の仕方、自分が一番得意なルートを選んで進んでゆく。車と同じで、一台一台特性がぜんぜん違う。高速道路をとばすのに向いている車もあるし、道なき悪路を踏破するのに向いている車もある、町中をくるくる走り回るのに向いている車もある。学問や職業も同じです。自分の能力が最高に発揮できる「道」がある。そこを気分よく走る。みんなが同じ道を行き、同じ目的地に向かうからと言って、それに追随するのは潜在能力の浪費です。

大学には教養課程があり、内容も、要求している能力も違うさまざまな学問が用意されていますが、これはまさに、あなたの知性がどういうふうに使うと潜在能力を最大限に発揮するかを吟味するためにあります。教養課程で、存在すら知らなかったいろいろな学問をひと通り食べてみる。その中に食いつきのよいもの、面白さを感じるものを見つけてください。教養課程は「いろいろな知的刺激を味わう」ことに意味があります。自分の知性がどういう入力に反応するのか、どういう主題について性能が向上するのか、それをていねいにモニターして欲しい。自分の知性構造の見取り図を持ってほしい。高等教育の基本は自学自習です。みなさんが、自分の知性のモニターがきちんとできたら、あとは教師にはもう何もすることがないんです。

  • 2009年8月 6日
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内田 樹(うちだ たつる)

神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。2009年度より本学入試部長。専門はフランス現代思想だが、教育論から身体論、映画論まで幅広い。また、武道家でもあり大学の合気道部と杖道会で実技の指導を行っている。「街場の教育論」ほか、教育についての提言も多数。

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