ある雑誌から「学力のつけ方」というテーマで取材がありました。う~む。学力のつけ方ですか・・・
みなさんは「学力」って何のことだと思いますか?
試験の点数とか、偏差値とか、TOEICのスコアとか、そういう数字で表せるものだと思っていませんか。
私はそうは思いません。
「学力」って、送りがなを振ったら「学ぶ力」になりますね。「学力」というのは、「想像力」とか「包容力」とか「忍耐力」とかと言葉の成り立ちは同じで、「学ぶことができる力」と解するべきではないでしょうか。
「学ぶことができる力」
それは点数や記号では表せません。そもそも数値的に考量すべきものではない。それは人間が「学ぶこと」に対して、どれくらい熱意があるか、どれくらい夢中になれるか、どれくらいぐいぐい知識を吸収するか、それを評するときに言うものであって、数値的に示して、他人と比べたり、それで人間を格付けしたりするものではない。私はそう思います。
例えば、あなたは「消化力」が強いとします。ご飯をぱくぱく食べても、「ぶふ」と倒れ伏すことなしに、すぐにぴょんと起き上がって、次の活動に取りかかれる。だから、「消化力、強いです」とちょっと自慢。でも、他人と比べて数値的に比較したりしようと思わないでしょう。比較するもんじゃなくて、むしろ、個人的な経時変化のチェックに使うものだから。「どうも、今日は腸における水分の吸い込みが弱いな」とか「ランゲルハンス島からのインシュリンの分泌がいまいちである」とか、そういうふうに自分自身の「これまでの消化力の推移」と引き比べて、自己管理に使うんじゃないですか。
睡眠力とか、細胞再生力とかもそうでしょう。
どんなときでも臥床後数秒で熟睡状態に入れるというのはすごい睡眠力ですよね。でも、これを他人と比較して自慢するということは、ふつうしません。怪我をしてもすぐに傷口がふさがってしまうという細胞再生力も生きる上ではある意味学力以上に重要な力ですけれど、これを比較して数値化して、人間を格付けするということは誰もしませんね。
学力もそういうものと同じだと思うんです。
「学ぶ力」はほんらい他人と比べるものじゃない。個人的なものだと思います。個人の経年変化について使う指標だと思います。
「なんか今朝は学ぶ気がしない」ということがあります。「どうもこの先生の話は聴く気になれない」ということがある。「どうもこの教科になると頭の機能が低下する」ということがある。主題によって、教える人によって、前の日に友だちと交わした一言によって、朝読んだ新聞の記事の一行によって、「学ぶ気」が高揚する場合があり、低下する場合がある。そういうものですよね。
何だか知らないけれど、今日はぐいぐい学びたい気分だなあ。さあ、何でも来い、というのが「学力が高まっている状態」ですね。
でも、それって「どういう状態」なんでしょう。
実際に、いくつか条件を示すことができます。
第一の条件は、自分は「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。無知の自覚と言ってもいい。当たり前ですけれど、「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人は「学ぶ力」がありません。これが本来の意味での「学力がない」人ですね。
第二の条件は、教えてくれる人に出会える力。
学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、誰に教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、この能力がないと学びは始まりません。
ただ、ここで「先生」というのは別に学校の先生である必要はありません。書いたものを読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「先生」に見立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって「先生」にしていいわけです)。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「先生」に見立てて、その人から学ぶということももちろん構いません。生きて暮らしていれば、至る所に師あり、ということになります。
ただ、そのためには常住坐臥(じょうじゅうざが)いつも先生を探して、アンテナの感度を上げている「先生センサー」が機能していることが必要です。
第三の条件。それは「教えてくれる人を『その気』にさせる力」です。
こちらには学ぶ気がある。先生には「教えるべき何か」があるとします。条件が二つ揃いました。でも、それだけでは足りません。それだけでは学びは起動しません。
もう一つ、先生が「教える気」になる必要があります。
むかしから、師弟関係を描いた物語には、必ず「入門」をめぐるエピソードがありますね。何か(武芸の奥義とか)を学びたいと思っていた子どもが達人に弟子入りしようとするのだけれど、「ダメ」とすげなく断られる。それでもしつこくついていって、最初はいやがられるのだけれど、いろいろな試練の末に、どうも教わりたいという気持ちがまっすぐで素直であるということがわかると、「しかたがない。弟子にしてやろう」ということになる。そういう話はほとんど無数にあります。「学ぶ気」と「教える力」があるだけでは学びは成立しない。教える人に、「教えよう」という欲望が発動することが必要である。さて、そのための条件は何でしょう。
どういう条件が整うと、人は「たいせつなことを教えてもいい」という気になるのでしょう。
お金とかじゃないですよ。「先生、これだけ払うから、その分教えてください」といって札束を積み上げるようなやつはふつう弟子にしてもらえません。
先生を利益誘導したり、脅迫したり、おだてたりしてもダメです。だいたい、お金でころころ態度が変わったり、脅かされたら腰砕けになったり、ちやほやされると舞い上がるような人間は「先生」として尊敬する気になれないですものね。
先生を教える気にさせるのは、「お願いします」という弟子の真率だけです。まっすぐな気持ち。先生を見上げるつぶらな瞳。それだけ。これはあらゆる「弟子入り物語」に共通するパターンです。
弟子の側の才能とか経験とか、そういうことはどうでもいいのです。なまじ経験があって、「私はこれこれこういうことを、こういうふうな方法で習いたい」というようなこうるさい注文を先生に向かってつけるようなことをしたら弟子にしてもらえません。
それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も書いてないところに、墨痕淋漓(ぼっこんりんり)、白い紙に黒々と墨のあとを残すように、どんなこともどんどん吸収するような、学ぶ側の「無防備さ」が先生が「教える気」になるたいせつな条件です。先生の教えることは何でも吸収しますという開放性、それが「先生をその気にさせる」ための弟子の構えです。
この三つですね。学ぶ力を構成するのは。
もう一度言います。
第一に、「自分は学ばなければならない」というおのれの無知や非力や無能についての痛切な自覚があること。
第二に、あ、この人が私の「先生」だ、と直感する力。
第三に、その「先生」に教える気にさせる無防備なほどの開放性。
これをひとことで言うと、「私は学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。
これだけ。
この言葉をさらっと言える人はもうその段階で「学力のある人」です。学校の成績のようなものは、この「学ぶ力」がもたらすさまざまな副産物のうちの一つに過ぎません。
この言葉が言えない人は、どれほど知識があろうと、技術があろうと、世知に長けていようと、権勢を誇っていようと、「学力のない人」です。私はそう見なします。
そして、現代日本人の「学力が劣化している」というのは、まさにこのことなのです。
別に知識が足りないとか、情報が不足しているとか、英語ができないとか、分数のわり算が苦手とか、そういう定量的なことを言っているのではありません。
そうではなくて、「学びたいんです。先生、教えてください。お願い」というまことにシンプルな言葉を口にすることを日本の子どもたちは忌避していることを「学力が劣化した」と申し上げているのです。
ほんとうに忌避しているんです。その言葉を口にすることを惜しんでいる。それを口にするとなんだかすごく「損をした」ような気になるらしい。だから、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたいと思っている子どもが、たぶんマジョリティを占めている。
別にいいよ。学びたくなんかないし、知らなきゃいけないことはもう知ってるし、先生なんか要らないし、誰かにものを頼むなんて借りができるみたいでやだし。
そういうふうな態度の子どもが多い。ほんとうに、ほとんど全部と言ってもいいくらいに。
これでは「学ぶ力」が劣化するのは当たり前です。
どうして、子どもたちは「学ぶ力」を失ってしまったのか。
それについてはまた次回。
神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。2009年度より本学入試部長。専門はフランス現代思想だが、教育論から身体論、映画論まで幅広い。また、武道家でもあり大学の合気道部と杖道会で実技の指導を行っている。「街場の教育論」ほか、教育についての提言も多数。