「ぼおっと」過ごせる空間

津田塾大学の三砂ちづる先生が遊びに来たので、社交館で(というかっこいい名前のラウンジが本学にはあるのです)お茶をしました。
三砂先生は数年前、先生がまだブラジルから帰ってきたばかりの頃にお会いしたのが最初です。
お会いしたちょうどその日の朝に、朝日新聞の「人」という欄に三砂先生が紹介されていました。
「女性は子どもを産むことで成熟する」というフェミニストが読んだら卒倒しそうなことを書いていました。
ぼくはその頃「アンチ・フェミニズム」の孤塁(だったんですよ、ほんとに)を守って、「育児は楽しい。家事労働は創造的な仕事だ。他人と迷惑をかけたりかけられたりして暮らす能力は『自立』なんかよりずっと人間的に重要なものだ」と主張しておりました(主な理由は私が父子家庭の"母親"として一人娘を育てたせいですけど)。
若い皆さんにはぴんと来ないかも知れませんけれど、今からほんの数年前には女子大学の中でそんなことを言う教師なんて、ほんとにいなかったんです(あと一人、うちの人間科学部に頼藤先生がおられました。その二人だけ。でも、頼藤先生はしばらくしてお亡くなりになりました。すてきな先生でしたけどね)。
ですから、「出産・育児は苦役ではなく、人間的成長の好機である」と分娩について研究されてきた三砂先生が言ってくださったことにはずいぶんと意を強くしたのでした。
お会いしたら、予想通りすてきな人で、すっかり意気投合して、その後一緒に何度かお話をする機会があり、その対談録を本にしました。(『身体知-身体が教えてくれること』、バジリコ、2006年)
お会いしてしばらくして、三砂先生は『オニババ化する女たち』(光文社新書、2004年)という本を書いて、世の物議を醸しました(皆さんは中学生くらいだから覚えてないかも知れませんけど、もし、機会があったらぜひ読んでみてください。タイトルはあれですけれど、すごくきちんとした本ですよ)。
それから後もときどきお会いしてました。
最近のトピックは、「平成結婚塾」。
これはちょっと説明が要るんですけれど、明治大学の鹿島茂先生が「われ平成の井上馨たらん」と舞踏会を始めたのはご存じですか?
ご存じない。
あまりにまわりの若い人たちが「出会いがない」ので、恋愛も結婚もできませんと泣訴するのに業を煮やした鹿島先生が「ボーイ・ミーツ・ガールのための舞踏会」をやることにしたのです。
名づけて「プロジェクト鹿鳴館!」。
男性はタキシード、女性はあのひらひらのドレスを着てダンスを踊るんです。(その顛末については鹿島先生が最近本を書かれました。『プロジェクト鹿鳴館!』(角川書店)。これも機会があったら手にとって見てください)。
その同じ頃に、ぼくもまた同じ理由から、釈徹宗先生(浄土真宗如来寺住職・兵庫大学準教授)と相語らって、「佐分利信プロジェクト」というものを立ち上げました。
佐分利信というのは小津安二郎の映画に出て来るおじさんで・・・と言っても、高校生のみなさんはどちらもご存じないでしょうから、この話題はスルー。
ともかく、そのときに三砂先生も(示し合わせたわけでもないのに)まったく同じ動機から「平成結婚塾」というのを始めて、「身近にいる独身男女たちのためのマッチメーキング・ヴォランティア活動」を開始されたのでした。
そのトピックで三人が会って鼎談したことがあります。
『オール讀物』という雑誌の企画でしたけれど、面白かったですね。
でも、今のところ、成婚率は圧倒的に鹿島先生が優勢(なにしろ20%)。
ぼくと三砂先生は2年近く活動しているのに、いまだ未勝利(こういうのを「勝利」と呼んでいいかどうか知りませんけど)。
まあ、そういうふうにいろいろと仲良しの三砂先生です。
その三砂先生と社交館でお茶をしながら、「最近の女子大生」の「傾向と対策」について貴重な情報交換をしました。
津田塾と本学はサイズ的には同じくらいです。全学で2500人前後。郊外の緑の多いキャンパスにある、キリスト教精神のリベラルアーツカレッジというのも似ています(でも、津田塾はいわゆる「ミッションスクール」ではありません。創設者の津田梅子がキリスト者だったので、教育理念はもともと「キリスト教的」で、学内にチャペルもありますけれど)。
ですから、学生の質も似ているのかなと思ったら、やはりそれは東京の大学と阪神間の大学で、微妙に学生たちのメンタリティに違いがあるみたいです。
あえて、一言で言ってしまうと、神戸女学院大学の学生の方がいささかマインドが「お気楽」ということです。
「お気楽」というと悪い意味に取る人がいるかもしれませんけれど、ぼくが言いたいことはちょっと違って、「肩の力が抜けている」というか、「"無為"な時間を過ごすことに対してアレルギーがない」ということです。
もちろん、それはネガティヴに言えば、「緊張感が足りない」とか「寸暇を惜しんでばりばり勉強する意欲に乏しい」というふうにも言えるんですけれど。
でも、ぼくは、大学生にとっては、キャンパスで「ぼおっとしている」ということはすごく大切な"仕事"なんじゃないかと思っているんです。
いちばんつまらない学生生活というのは、「入学時に立てた『学習計画』に基づいて、予定通り単位を取り、資格を取り、免状を取り、検定のスコアを上げて、さくさく卒業する」というものだと僕は思います。
それだとコンビニで買い物するのと一緒じゃないですか。
買い物かごに「欲しいもの」を放り込んで、レジで精算して、店を出る。
たしかに店に入る前に「持っていなかったもの」を、代償を払って所有することはできました。
でも、人間はまったく変わっていないでしょう。
品物が増えただけで、人間は変わらない。
そうですよね。
「買い物」とはそういうものです。
店に入る前には「すごく欲しかったもの」が、いざレジでお金を払う段になったら「何の興味もないもの」に変わっていたら、買い物はできません。
「買い物」の基本ルールは「消費者は(その欲望も、知性も、身体組成も、何も)消費活動を通じてまったく変化しない」ということです。
考えていることも、感じていることも、欲しいものも、「買う前と買った後」で絶対に変化してはならない。
どれほど長い間売り場で過ごしても、買い物している限り、「時間が経過しない」んです。
というより、時間が経過してはならない。
消費活動というのは本質的に無時間的なものであり、無時間的でなければならない。
それは「消費者」にかけられたある種の「呪い」です。
いや、別にそれが悪いと言っているのではないのです。
経済活動なら、それでいいんです(欲望の発生と商品の獲得の時間差を「ゼロ」にすることがすべての経済活動の目標なんですから)。
でも、教育は「買い物」ではありません。
教育がめざすのは「買い物かごに入っている品物を増やすこと」ではなくて、「買い物客自身が、店に入る前と出たときでは別人になっていること」です。
店に入る前には「あれが欲しい」と切望していたものが、お店であれこれ見ているうちに「別に要らないや」ということになって、それとはぜんぜん違うものが欲しくなったり、あるいは、あれこれ見ているうちに、「あ、いけね。こんなところでこんなことしている場合じゃないんだ」と店から走り出たり。
教育とは「そういうこと」です。
学校教育の目標は一つだけです。
それは「成熟すること」です。
もし学校に入ったけれど、入学前と卒業時で、考えていることも感じていることも、価値判断も美意識も、まったく変化していない人がいたら、その人は残念ながら、「教育を受け損なった」ということになります。
そんなつまらない学生生活を送ってはいけません。
「成熟」には時間がかかります。
生物の場合といっしょです。
「背を高くしたい」と思って、腹がちぎれるほどご飯を詰め込んでも、すぐには大きくなりません。
ご飯を咀嚼して、消化して、吸収して、それが養分となって行き渡り、代謝システムが書き換えられ、骨が太くなり、筋肉がついて、血管や神経も長くなって、ようやくちょっとだけ背が伸びる。
ご飯を食べたあとは、しばらく「ごろん」と横になって、それがしっかり身につくのを待たなければいけません。
教育もそれと一緒です。
ほんとうに学ぶ価値のあることを学んだときに人間の精神は「休息」を要求します。
ちょっと待ってね。いま、あまりに思いがけないことを聴いたので、「頭がびっくりしている」
ちょっと、休ませて。
頭が落ち着くまで。
そういう印象をもつことがありますでしょう(まだ、ないかな)。
そういう機会に出会えるのが大学で経験できる最良のことなんです。
「頭がびっくりしている」ときに、また次の授業をすぐ聴いたり、キャンパスから走り出てバイトに行ったり、友だちとカラオケに行って歌いまくったり・・ということはしないほうがいいです。
せっかく「びっくり」しているんだから。
ゆっくり「びっくり」させてあげましょうよ。
そのためには「肩の力を抜いて」、キャンパスの中で、しばらく「ぼおっと」していることが必要です。
緑の草木を眺めたり、花を見たり、昼寝している猫のおなかを眺めたり、図書館で本を開いてそのまま中空をみつめていたり、チャペルでパイプオルガンの練習を聴いたり、グラウンドを走り回っている選手たちの歓声を聴いたり、麦わら帽子をかぶって中庭を耕している寮生を眺めたり、そういう「無為な時間」が「びっくしした頭」を鎮静させて、いま頭をぐらぐら壊乱した何かがしかるべき場所に落ち着くためには必要なんです。
だから本来、高等教育のキャンパスには「誰にも邪魔されず、ぼおっと無為な時間を過ごすことができるための空間」が人数分用意されていなければならない。
ぼくはそう思っています。
たぶん、ケンブリッジとかオックスフォードとかハーヴァードとかそういう大学はそういうふうになっているはずです(パリ大学は違います。フランスの大学には建物だけしかありません。でもその代わりに、校舎を一歩出ると、街には「ぼおっと」用のスペースがほとんど無限にあります。だから、パリは「知性の都」と呼ばれるゆえんなんです)。
教育とは何か、学問とは何かということがわかっていれば、必ずそうなるはずなんです。
でも、残念ながら、そのような空間的「無駄」が大学教育には死活的に重要だと考えている大学人は現代日本にはほとんどいません。
みなさんすっかりビジネスマインデッドになって、「坪単価」とか「回転率」とか、そういうせこいワーディングでキャンパスデザインを論じています。
さいわい、本学は「そういう空間」だけはたっぷりあります。
これは設計したヴォーリズさんが「教育」というものについて深い洞察力を備えていたからだと僕は思います。
本学のヴォーリズ設計の学舎には「引っ込んだところ」がやたら多いんです。
ほんとに。
廊下の途中に意味不明の「へこみ」があって、古い長椅子が置いてある。
壁の裏に「隠し階段」がある。
隠し階段を登ると昼寝のできる「隠し部屋」がある。
理学館に「隠し三階」と「隠し屋上」があるのを発見したのは、ぼくが赴任して5年目のことでした。
理事室の奧に「隠しトイレ」があるのを発見するまで、17年かかりました。
「誰にも邪魔されない場所」「自分だけの隠れ家みたいな場所」をそこらじゅうに仕掛けておかないとキャンパスは機能しない。
たぶんヴォーリズさんは直感的にそう理解したんだと思います。
この大学に20年勤めて、いまでもぼくはふと廊下の角を曲がったときなんかに、この設計者のお茶目な「悪戯心」と教育についての見識の高さに驚かされます。
「ぼおっとしていること」が空間的にこれほど勧奨されているキャンパスというのは、日本でも例外的なんじゃないかと思います。
たぶん、それが「肩の力が抜けている」「無為な時間を過ごすことが得意」という本学学生のきわだった特性の涵養にもつながっているのかと思います。
優等生で、親の期待を一身に担って、めいっぱい努力している学生たちの陥る心理的な苦しみについて、三砂先生としばらくお話をしました。
そういう学生のためには、「あなたは、ここでのんびりしていていいんだよ」という場所と人間関係が絶対必要だよねということで三砂先生と意見の一致を見たのでした。
高校生のみなさんも、いろいろと気苦労の多い人生を送っておられることと思いますが、これから先の長い人生をハッピー・ゴー・ラッキーに過ごすためには、大学を選ぶときには「無為な時間を気分よく過ごすためのファシリティ」がどれだけ整備されているかをひとつの目安にすることをぜひお薦めします。

  • 2009年6月 8日
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内田 樹(うちだ たつる)

神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。2009年度より本学入試部長。専門はフランス現代思想だが、教育論から身体論、映画論まで幅広い。また、武道家でもあり大学の合気道部と杖道会で実技の指導を行っている。「街場の教育論」ほか、教育についての提言も多数。

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